駒大黄金期に3大駅伝皆勤賞の佐藤慎悟さん 会社経営者として「たすき」をつなぐ!
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は佐藤慎悟さんのお話です。駒澤大学で3大駅伝フル出場、出場12回のうち5回優勝メンバーに。M高史の大学の1つ先輩でもあります。卒業後は日清食品、八千代工業で競技を続け、現在は会社経営者として新たな道を突き進んでいます。
一番になりたくて陸上の道へ
栃木県出身の佐藤慎悟さん。小学校では野球少年でしたが「小学校の先生が熱心で、陸上の大会に出たら1000mで優勝したんです。目立ちたい、一番になれるものと考えて、中学から陸上を始めました」
芳賀中学校では、陸上部の先生が毎年替わられたそうです。1年生の時は郡大会止まりで県大会に行けず。2年生の秋には県大会3位に入ることができ、3年生になると全日本中学陸上に出場。また駅伝も強い学校で、全国中学駅伝2位(当時、栃木県最高順位)に入りました。
高校は作新学院高校に進みます。ここでも途中で先生が替わりました。「高2で顧問の先生が替わって、それ以来は自分でスケジュールを決めさせてもらったんです。結果だけではなく、どんな過程で練習を積んだのか、そちらの嬉しさに喜びを感じていました」
自分で練習メニューを管理して、年間の試合スケジュールも管理していた高校2、3年。「自主性を尊重していただいた高校の恩師には迷惑ばかりかけていましたね。今思うと感謝しかないです」と振り返られました。
3年生になると都道府県駅伝1区区間4位、10000mで29分24秒67の栃木県高校記録(当時)。当時行われていた青東駅伝では高校生ながら区間賞も獲得されました。
駒澤大学で1年目から3大駅伝に出場
大学は駒澤大学へ。「箱根駅伝の活躍もありましたが、藤田敦史さん(現・駒澤大学陸上競技部ヘッドコーチ)、西田隆維さんのようにマラソンで活躍したいという気持ちがありました」と駅伝とその先のマラソンを見据えての進路選択でした。
駒澤大学に入ってみて最初の印象は「厳しい」。「これが箱根で優勝するチームか!」とレベルの高さ、雰囲気に驚かれたそうです。「競技について、頭でどういう風に考えるのか、その経験が今の経営につながっているんですよ。厳しかったですが、いい4年間でした」という佐藤さん。
1年目の出雲駅伝は2区。1区・内田直将さんから先頭で襷(たすき)を受けましたが「かなりの緊張でブレーキしてしまって」と、区間9位の走りで5位に後退。ほろ苦い3大駅伝デビューとなりました。
続く全日本大学駅伝では5区を担当。「思うように走れませんでした。周りが強い先輩ばかりで、つないだ走りでした」と謙遜されましたが、区間2位の走りでチームの優勝に貢献。
初めての箱根駅伝は往路3区。「よくわからずに終わりましたね。応援もすごかったです。とにかくつないだ走りでした」と区間6位の走り。結果チームは総合優勝。連覇を達成しました。「(優勝は)嬉しさよりホッとしました」と言います。
2年生になると、出雲駅伝では4区・区間3位、全日本大学駅伝ではスタートの1区を任されて区間4位。前年よりも確実に力をつけられていました。箱根駅伝では前年に続いて3区。「ある程度自信を持ってのぞめました。振り返ると4回走ったうち一番コンディションが良かったので、気持ちにも余裕がありましたね」。先頭で日本体育大学と並走。「相手の表情、息づかいを感じながら走れました」という走りで区間賞。単独首位に立つ好走でチームはそのままトップを譲らず総合優勝。3連覇を達成しました。
3年時に日本インカレハーフマラソンで優勝!
3年目、7月に行われた日本インカレではハーフマラソンで優勝! 初のタイトル獲得となりました(日本インカレでハーフマラソン実施はその年・2004年まで)。
「持ちタイムが一番良かったですし、優勝しなきゃと思っていました。暑い中でのレースでしたので、ラスト1回だけしか足が使えないなと思っていました」と作戦通り、ラスト200mのスパートで優勝でした。
出雲駅伝ではアンカーを務め区間3位。優勝した日本大学のディラング・サイモン選手に逆転を許したものの、2位を死守する粘りの走り。
続く全日本大学駅伝では1区(当時:14.6km)を任されました。「1区のメンバーはスピードランナーが揃っていました。東海大の丸山敬三くん、立命館大の田子康宏くん、順大の松岡佑起くん、ラストに強いメンバーばかりだったので、途中でレースを壊さないと区間賞はとれないと事前に大八木弘明監督から話もありました」と、レース前から戦略を立てていました。
ちょうど10km付近で急激なギアチェンジ! 「行くなら中途半端だとついてこられると思ったので、とりあえずダッシュしましたね(笑)」。強烈なスパートで集団は一気に崩れ、そのまま区間賞を獲得。1区から先頭に立った駒澤大学はそのまま逃げ切り、優勝を飾りました。
迎えた箱根駅伝では花の2区を任されます。「各校のエースが集まる2区ということもあって結果を出したかったです。日本インカレで優勝していることもあって、箱根でも結果を残したかったんです。それが焦りにつながり練習を重ねて調子、ピークがずれてしまいました。連覇がかかっていたこともありますね」
練習から意気込み、張り切りすぎていたため、大八木監督から「抑えろ抑えろ」と言われていた佐藤さん。「結果を出そうと焦って、自分を見失っていました。チームは4連覇を達成しましたが、結果が出せなくて個人的(2区・区間9位)には悔しかったですね」とふりかえられました。
その後につながっている4年目の悔しさ
「4年生の時は年間通じていいレース結果がなかったですね」という佐藤さん。出雲駅伝では再び6区を走り区間6位。チームは4位に。全日本大学駅伝では4区2位でしたが、チームも3位で優勝には届きませんでした。
箱根駅伝では再び2区でしたが「うまく走れなくて不甲斐ない成績でした」。個人では区間7位。チームも5連覇はならず総合5位という結果でした。
入学後、箱根駅伝では3年連続で優勝していましたが、「最後に勝てなかったのは悔しかったですが、今となってはいい思い出です。仲間との絆、同級生、先輩、後輩にも恵まれて、いい環境でやらせてもらいました」
恩師・大八木監督の魅力については「とにかくあの熱量ですね! 陸上に打ち込む時の姿勢、熱すぎるくらい熱いものをお持ちです。競技を向上させる、チームを変えるエネルギー、とにかく情熱的なのが魅力です」。さらにこう続けます。「練習の微調整が抜群なんです。暑さ、寒さ、風、雨などコンディションによってタイムなどを絶妙に調整されます。あとは勝負勘ですね。レースの変わり目、レースが動くところを的中させたり、監督の予想した通りのところでスパートすると勝てたり、勝負勘のすごい方でした!」
ちなみに、大八木監督のご指導で勝負勘、情熱も培われた学生時代の経験は会社経営者となってからも大いに生かされているといいます。
故障に苦しんだ実業団生活
大学卒業後は実業団・日清食品グループへ入社。「実業団では大学4年の箱根で負けた分、飛躍したいと思っていました」と意気込んで競技に取り組みました。
入社2年目の東日本実業団駅伝ではアンカー7区を走って区間2位。優勝のフィニッシュテープを切りました。
その後、ニューイヤー駅伝出場も果たしますが、「実業団では故障もあって思うように走れなかったですね」と苦しい競技生活となりました。
高校時代から憧れていたマラソン挑戦に向けて、北海道マラソン7位、青梅マラソン30km5位で走られましたが、思い描くような成績を残すことができなかったそうです。日清食品グループで6年間、八千代工業に移籍して2年間、計8年間にわたる実業団での競技生活を終えました。
会社経営者としての挑戦
現役を引退して、地元・栃木県宇都宮市を拠点に現在は3つの会社を経営されています。
サニーライン株式会社ではレタスを中心とした水耕栽培で、スーパーなどに向けて出荷されています。「スーツでできる農業」をテーマに水とパネルを使い、服をあまり汚さずに、腰を曲げなくても立ったままできる生産方式をとっています。
株式会社たすきでは障がい者就労支援をしています。「A型事業所と呼ばれるものです。施設外就労ということでサニーラインで水耕栽培の収穫、栽培、種まき、撤去作業などをしてもらっています」。農福連携で水耕栽培に取り組んでいます。
会社名を「たすき」としたのは、陸上をやってきたことに加えて、人と人とをつなぐ事業であることが込められているといいます。
株式会社ホットライナーでは運送業をしています。「先代である父親から事業継承させてもらって運営しています」と陸上競技とは一見離れたお仕事ですが、陸上競技をやってきて、生かされていることを教えていただきました。
「どうやったら速くなるか、どうやったら収益になるかというのはイコールだと思っています。陸上だとどういう練習が効果があるのか、分析して得意なポイントを見出したり、足りないものを鍛えたりします。事業も支出や収益をブロックごとに細かく分析して、会社としてどの項目が得意なのか具体的に見つけると武器になります」。企業価値として見つけられたら評価される。これは陸上も同じと佐藤さんは言います。
陸上と会社経営、畑は違えど、学生時代と変わらず熱く現状打破し続けている先輩をこれからも応援したいです!