陸上

連載:4years.のつづき

エンジに白の「W」、“赤レンジャー”渡辺康幸さんにあこがれて 竹澤健介・1

竹澤さんは今年4月、大阪経済大陸上競技部長距離ヘッドコーチとして陸上界に帰ってきた(撮影・松永早弥香)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ10人目は、早稲田大学時代に2008年北京オリンピックを経験し、箱根駅伝で3年連続区間賞、実業団を経て今年4月に大阪経済大学陸上競技部・長距離ヘッドコーチに就任した竹澤健介さん(32)です。1回目は早稲田のユニフォームにあこがれた少年時代についてです。

水泳選手への夢がぽっちゃり少年に砕かれる

のちに日本を代表するランナーになる竹澤少年の心にあったのは、陸上ではなく水泳だった。水泳を始めたのは3、4歳のころ。当時は泳ぐどころか顔を水につけることもなかなかできなかった。「親も『向いてないな』と思ってたでしょうね。突然泳げるようになって、途中から親の気持ちが入ってきたようですけど、根本的にはあまり期待してなかったと思います」。竹澤さんは目を細めて笑った。

小学生になると水泳選手を目指し、選手コースで週5日の練習。あるとき、ぽっちゃり体形の大きな男の子が同じスイミングクラブに入ってきた。週2日しか練習していなかった彼に、竹澤さんはレースで負けてしまったという。当時の竹澤さんは小柄で、小6になっても身長は140cm。学校のクラスで低い方から4番目だった。手足の大きさや体格も才能の一つだ。「いろんなことが水泳には必要なのか。このまま続けても厳しいのかな」と、幼心に感じていた。

小学生のときに出場した地元、兵庫県姫路市のマラソン大会で速く走れたのがきっかけで、小6で水泳をやめ、中学校では陸上部に入った。それでも水泳の方が好きだったし、水泳の苦しさと違って陸上の苦しさには慣れなかった。高い月謝を払ってもらって約10年続けてきた水泳をやめたのは親に申し訳ない、という気持ちもあったという。

陸上に対して前向きに練習ができていない中、中1の県大会を迎えた。1500mに出場した竹澤さんは0秒01差で近畿大会出場を逃した。もっと練習しないといけない。その大会を機に陸上へのスイッチが入ると、グングン成長していった。中3の全日本中学選手権では1500mで5位、3000mで4位に入るまでになった。

恩師の言った「真面目そうだけど不真面目」

高校に進学する際、複数の強豪校から声をかけてもらった。その中には工業や商業などの実業高校も含まれていた。教師をしていた親から「高校では総合的に学んでほしい」と言われていたため、普通科がある高校に絞った。さらに大学進学を見すえ、部活動と勉学の両面から総合的に判断し、報徳学園高校を選んだ。そこには全国高校駅伝で報徳を大会史上初の3連覇に導いた鶴谷(つるたに)邦弘という名物監督がいた。

竹澤さん(右から3人目)はことあるごとに鶴谷監督(同2人目)から怒られたという(写真は本人提供)

竹澤さんには当初、鶴谷監督が「優しいおじさん」に見えたという。ただの勘違いだった。毎日のように厳しい言葉をぶつけられ、どんなことで怒られたのかも思い出せないほど、ことあるごとに叱られた。その鶴谷監督の言葉の中で、いまも心に残るものがある。

「真面目そうだけど不真面目、って。意味はよく分からないんですけど、真面目にこなしてるように見えるけど、『こなしてるだけで、そこに意味を見いだしてない』って言いたかったのかな。僕としてはそう解釈してます。何度も言われました。絶妙な言葉だな、って。本当は特別な意味はなかったのかもしれないけど、僕の中では残ってましたね。自分を律するときに思い描いたりして。何かが足りないぞ、って言いたかったのかなとか考えて」

実家が姫路市内にあった竹澤さんは高校時代、同じように遠方の部員7人と一緒に、鶴谷監督宅に下宿していた。3階に2段ベッドの並ぶ部員たちの部屋があり、1階のリビングが食堂だった。優しくて天真爛漫な監督の妻・憲子さんが毎日ごはんを作ってくれた。

振り返ると、高校時代は思い通りにいかなかったことが多かったという(右が竹澤さん、写真は本人提供)

高校時代を振り返ると、思い通りにいかなかったことが多く「下積み期間」という意識が強いという。高3の04年にはインターハイの5000mで8位に入った。全国高校駅伝の予選にあたる兵庫県高校駅伝では西脇工業に敗れた。「勝てるメンバーだったのに、歯車がうまくかみ合わなくて負けてしまいました。あまり落ち込むタイプではないんですけど、このときはちょっと落ち込みましたね」。ただ、この年の全国高校駅伝の男子は55回目の記念大会で、47都道府県代表に加えて地区代表11校にも出場権があった。報徳学園は続く近畿高校駅伝で優勝し、地区代表枠で都大路へ。竹澤さんはジョン・カリウキさんやメクボ・ジョブ・モグスさんらとともに「花の1区」を走り、区間11位。最終的にチームは4位だった。

餅つきの合間に見た、渡辺康幸さんの走り

早稲田に進むことに迷いはなかった。「浪人しても早稲田にいくのか?」と平山征志コーチ(現監督)に試されたこともあったが、「それでも目指したいと思います」と答えた。早稲田以外は考えていなかった。ほかの大学に進むことになったら、陸上はもういいかなと思うことさえあったという。エンジに白の「W」のユニフォームを着て走りたい。そう考えるようになったのは、小3のときにテレビで見た渡辺康幸さん(現・住友電工陸上競技部監督)の影響が大きかった。

早大4年生のとき、全日本大学駅伝で優勝のゴールテープを切る渡辺さん(撮影・朝日新聞写真部)

当時、竹澤家では正月になると祖父の家に行き、親戚と一緒に餅つきをしていた。その側ではいつも、テレビで箱根駅伝が流れていた。水泳に熱中していた竹澤さんは、箱根駅伝よりもその裏でやっていたお正月特番が見たかったため、CMになったらチャンネルを変えていたという。CMのタイミングを待っていたときに映し出されたのが、早稲田のエース渡辺さんと山梨学院大の真也加ステファンさん(現・桜美林大陸上競技部駅伝監督)の競り合いだった。

「戦隊ものの“赤レンジャー”とか“青レンジャー”という感覚だったと思うんですけど、兄が『俺は青がいい』って言うから、『だったら僕は赤』とか言って早稲田を応援してて。それが2~3年続いたのかな。早稲田ってかっこいいな、って幼心に思ってましたね。もし陸上をするなら早稲田に行って箱根駅伝を走りたい、というのがずっと頭の片隅にありました」

05年春、竹澤少年の10年越しの夢が現実になった。そして当時の早稲田大学競走部を、あの日エンジに白の「W」のユニフォームで駆けていた渡辺さんが監督として支えていた。ただその環境は、竹澤さんが思い描いていたものとは違っていた。

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