陸上

連載:4years.のつづき

1年生からずっと早稲田のエース、自分の考えを大事に前進 竹澤健介・2

早大競走部時代の竹澤さんは、険しい顔で多くを語らない選手だった(撮影・増田創至)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ10人目は、早稲田大時代に北京オリンピックを経験し、箱根駅伝で3年連続区間賞、実業団を経て今年4月に大阪経済大陸上部・長距離ヘッドコーチに就任した竹澤健介さん(32)です。2回目は早稲田のエースとして世界に飛び出した大学時代についてです。

エンジに白の「W」、“赤レンジャー”渡辺康幸さんにあこがれて 竹澤健介・1

よくなかった競走部の雰囲気、練習しない先輩も

「うれしかったですね、素直に。エンジに白のWは自分の中では大きなものでしたから。幼いころからずっとあこがれてて、そんな10年越しの夢が実現したのがすごく感慨深かったです」。竹澤さんは早稲田のユニフォームを初めて着たときのことをよく覚えている。

当時は渡辺康幸さん(現・住友電工陸上部監督)が早稲田の監督で、週3日のポイント練習は決められていたが、それ以外は各自で考え、自分に合ったメニューに取り組んでいた。渡辺監督は選手の自主性を重んじ、選手自身が自分で考えるという方針をとっていた。報徳学園高のときから自分で考えて行動してきた竹澤さんにとっては、そのリズムが自分に合っていると感じたという。

しかし当時の早稲田は箱根駅伝のシード権を3年連続で逃しており、競走部の雰囲気はよくなかった。朝練に来ても何もせずに帰り、寮に戻ってはゲームをするような先輩もいた。早稲田、そして箱根駅伝に崇高な思いを持っていた竹澤さんはそうした現実に驚き、ショックを感じてしまったという。

それでも入学してすぐの5月には5000mで13分45秒95の自己ベストをたたき出し、全日本大学駅伝の関東地区選考会と箱根駅伝予選会でも日本勢トップと、1年生ながらエースとしてチームを支えた。1年生としてプレッシャーはなかったのだろうか?そう尋ねると「なかったですね。早稲田のユニフォームを着られることは幸せでしたし」と、笑顔で返した。

そして初めての箱根駅伝。竹澤さんは各校のエースが集まる2区を任されたが、区間11位にとどまった。「舞い上がってしまいました。あんな大歓声を受けることなんて、僕には経験がないことでしたから。自分の呼吸の音が聞こえないんです。パーンと飛んじゃった感じ。しんどかったんですけど、気づいたら終わってしまってました」。早稲田は13位に沈み、また予選会からのスタートとなった。

藤森主将が変えた雰囲気、初の箱根で区間賞

そうしたチームの雰囲気を変えたのが、竹澤さんの2学年上の藤森憲秀さん(現・中国電力)だった。藤森さんは主将になると、いろんな改革に着手した。朝練にはほとんどの選手が参加し、その後に補強練習にも取り組む選手が増えた。「あんまり口数は多くないんですけど、ズバっと心に刺さることをおっしゃる方でした。藤森さんがいなかったら、いまの僕はなかったと思います」。竹澤さんは2度目の箱根駅伝でも2区を走り、6人を抜く区間賞の走りで3位に浮上。3区だった藤森さんに襷(たすき)をつないだ。

3年生になってからは、10000mで27分45秒59をマークし、渡辺さんが持っていた日本学生記録を更新。さらに5000mでも13分19秒00の日本学生新記録を出した。現在もこの記録は破られていない。これらの記録を踏まえ、07年の世界陸上大阪大会(10000m)と08年の北京オリンピック(5000m/10000m)への出場をつかんだ。

大学3年生のときに世界陸上の10000mに出場し、12位だった(撮影・中田徹)

順風満帆に見える競技生活の中で、竹澤さんの胸の中にあったのは焦りだった。

「左足首に痛みが出始めて、でもやらなきゃいけないことは山積み。このままじゃダメなんだ。何か違うことをやらないと、ということは常に思ってました」

それでも変えられなかった。とにかくいまを一生懸命、目の前のことをこなしていく。何とか試合に出て、次の試合も、またその次の試合もと必死だった。もし当時の自分に何か言うとしたら? 「もうちょっと大きな視野で見たら? って言うと思いますね。いまだけじゃないんだよ、未来を大切にしなさいって」と竹澤さん。3年生の箱根駅伝には病院の先生に中継所まで来てもらい、直前に痛み止めを打って出た。3区を走った竹澤さんは12位から5位に引き上げ、2年連続の区間賞。早稲田は往路優勝を果たした。

主将として、圧倒的な競技力でチームの軸に

4年生になるにあたり、竹澤さんは約100人の部員を抱える早大競走部の主将となった。「自分はキャプテンをやるようなタイプじゃない」と言う竹澤さんがあえて主将になったのは、いまこのチームをまとめるんだったら自分がやった方がいい、と考えてのことだった。

「100人全員に同じ方向を見させるのは難しいです。その中で自分がキャプテンになって何ができるかと考えたら、やっぱり競技力だと思いました。『あいつが言うんだったらしょうがない』と思わせられるだけの競技力。その競技力だけは絶対落とさず、チームの軸でいよう。自分より人当たりがよかったり、マネジメント能力が高かったりする同期はいましたけど、いろんな種目に取り組む100人全員がその人のマネジメント能力の高さを認識できるかといったら、そうじゃない。勝ちにいきたかったんで、少々強引だったとしても、そういう方向性でやった方がいいなと思ったんです」

学生時代、鋭い顔つきでインタビューに答えることが多かった竹澤さんには、自分の強さを示したいという思いが顔つきに出ていたのだろう。「あんまりしゃべるとバレるんで。足も痛かったですし」と、いまはとても柔らかい表情でこう言った。

世界の強さ突きつけられた北京五輪

4年生のときに、竹澤さんは北京オリンピックに出ている。大歓声に包まれた世界最高の舞台。松宮隆行さん(現・愛知製鋼コーチ兼選手)とともに10000mと5000mに出場し、10000m決勝では28分23秒28で28位、5000m予選では13分49秒42で組の7着と決勝進出を逃した。「オリンピックでは完全に実力差が出ます。トラックでは日本勢がなかなか戦えません。自分なりには精いっぱい、日々一生懸命やってきたんですけど、それでも自分はこのぐらいなんだな、というのが正直な感想でしたね」

竹澤さんはオリンピックを「最高の舞台」と表現した(撮影・中田徹)

同じ北京オリンピックに走り幅跳びで出場した井村久美子(旧姓・池田)さんは、当時の竹澤さんに対して「とてもスマートで、当時の学生では珍しく、ちゃんと自分の考えを持ってる選手」との印象を抱いていたという。「同じ陸上選手でも、長距離選手はあまり短距離選手たちの輪に入ってこないような印象があったんですけど、その中で福士さん(加代子、ワコール)と竹澤君は『それいいっすね! 』なんて言って入ってきてくれました。うれしかったですね」と、井村さんは振り返る。

北京オリンピックを終え、最後の箱根駅伝を迎えた。竹澤さんは前回に続いて3区を走り、東海大の佐藤悠基さん(現・日清食品グループ)を押さえ、1時間1分40秒の区間新記録を樹立。3年連続で区間賞を手にした。過去3年間の箱根駅伝で早稲田は総合13位、6位、2位だった。最後の年こそ優勝を。そう意気込んで臨んだが、当時東洋大1年生だった柏原竜二さんの5区での活躍もあり、東洋大が初めて総合優勝をつかんだ。「とくに同学年の仲間に思い入れがあって、4年間一生懸命努力してきたんですけど、それでも優勝はできないチームだったんだな、一歩足りなかったけどそれでも一生懸命やったな、という思いはありました」と竹澤さんは振り返る。

早稲田から続く陸上人生を歩むの場として、竹澤さんは渡辺監督など多くの早稲田OBと同じく、エスビー食品に進んだ。一方で、左足に抱えたけがが、陸上人生に暗い影を落とした。

続きはこちら 実業団で廃部を経験、2度目のオリンピックはなかった 竹澤健介・3

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