陸上

特集:平成に輝いた4years.

早大・渡辺康幸、“30年に一人”の逸材が駆け抜けた平成

にこやかに学生時代を振り返ってくれた渡辺さん

平成時代に大学生アスリートだった名選手が当時を振り返る特集「平成に輝いた4years.」。二人目は早稲田大学競走部時代に10000mの日本新記録を樹立し、箱根駅伝のスターとして日本中をわかせた渡辺康幸さん(45、現・住友電工陸上競技部監督)です。

渡辺vs.マヤカは平成の名勝負

渡辺康幸の箱根駅伝は、ケニア選手との戦いで幕を開けた。

平成5年(1993年)大会の2区で区間2位。1時間8分48秒は1年生としては悪くなかったが、同じ1年生のステファン・マヤカ(山梨学院大)が1時間8分26秒で走り、区間賞を獲得した。

早大は1区の櫛部静二(3年)が区間新で、独走に近い状況に持ち込んでいた。山梨学大とは中継時に1分15秒の差があり、渡辺とマヤカは競り合ったわけではない。
「負けた意識はなかったですね。競り合えばマヤカ君に勝てると思ってました。当時はまだ、留学生に絶対勝てない、という刷り込みはなされてなかった。山梨学院大に来てた留学生は、マヤカ君の前もそれほど強い選手ではなかったので、日本の選手でも手が届くレベルだと思ってました。僕も高校時代にマヤカ君に勝ってましたから」

その年の早大は5区間で区間賞を取る圧倒的な戦力で、11時間3分34秒の大会新記録で総合優勝した。山梨学院大最初の留学生ジョセフ・オツオリも、2区で区間賞3回と箱根駅伝に名を残したが、特定の日本選手とのライバル関係はなかった。渡辺とマヤカの争いは平成初の、日本選手とケニア人留学生選手とのライバル関係だった。

いまのように「留学生=速くて勝てない」というイメージはなかったと語る

しかし2年生のときの箱根駅伝は渡辺が1区に回り、直接対決は実現しなかった。渡辺は区間賞を取ったが、山梨学院大の井幡政等(3年)も27秒差の区間2位と好走し、早大は2区でマヤカに逆転を許してしまう。マヤカは区間タイ記録の1時間7分34秒をマーク。総合優勝も山梨学院大で、区間賞4個、全員が区間3位以内という強さを見せた。

箱根2区で初の1時間6分台

3年生になって、マヤカとの直接対決が2年ぶりに実現した。11月開催の全日本大学駅伝は、渡辺の在学中に早大が4連勝。渡辺とマヤカのエース対決は3年生まで一度もなかった。その結果、2年生の箱根で1区と2区で区間賞の応酬をした二人は、全日本では渡辺が2年連続、マヤカは3年連続で区間賞を取り続けていた。2年ぶりに実現した箱根駅伝2区の対決は、いやがおうにも注目を集めた。

「僕も1年生から2年生、2年生から3年生と練習をしっかり重ねて、強くなってる手応えはありました。トラックの10000mでも28分7秒94(当時学生歴代2位)を出してたので、箱根の2区では1時間6分台を狙ってトレーニングをしてましたね」。難コースとして知られる箱根2区。「ラスト3kmの横浜新道の上りが最大の難関」と考え、攻略法を練って臨んだ。

早大3年生のとき、全日本大学駅伝で優勝のゴールテープを切る渡辺さん(撮影:朝日新聞写真部)

「1年生のときに2区を経験して、どこが難しくて、自分に何が足りないかを把握できました。まずは権太坂(14km手前から約1.5km続く緩やかな上り)までです。マヤカ君が速いペースで入るのは間違いないので、僕も前半から攻めるつもりでしたけど、権太坂で体力を使い切らないように、スタミナのバランスを考えて走りました。残り3kmの上りは前半を速く入りすぎると伸びません。そこでマヤカ君に差をつけようと考えました」

それが見事にはまり、1時間6分48秒の区間新記録を達成した。実はこの年も二人は競り合わず、前でタスキを受けたマヤカが1時間7分20秒と先に区間新を出していたが、その3分後に渡辺が2区初の1時間6分台を出したのである。箱根駅伝で昭和のレジェンドの一人に数えられる大塚正美(日体大)が83年に出した1時間7分34秒を、平成の名勝負を演じた二人が同時に上回った。

10000mで昭和のレジェンド超え

現行コースの区間記録は大塚が持っていたが、渡辺にとって昭和のレジェンドは瀬古利彦だった。早大の先輩で、当時の早大の監督でもあった。瀬古は2区の距離が24.4kmだったころ、1時間11分37秒の区間記録を持っていた。距離が違うため、2区の記録では瀬古と対比できない。その代わりに、渡辺は瀬古の持っていた10000mの学生記録27分51秒61(78年)を更新しようと考えた。渡辺の2学年先輩の武井隆次が28分17秒02(91年)で走るまで、学生歴代2位は28分35秒5(82年)だった。瀬古の記録が突出していたのだ。

「昭和のレジェンドである瀬古さんの記録を破ることが、目標の一つでした。瀬古さんの2区の区間記録を、僕らのころの距離に換算すると1時間6分台でした。箱根2区をそのくらいで走らないと27分台は出せないと、瀬古さんからも言われてました」

当時の記録がスラスラと口をついて出た

渡辺は4年生のときに世界選手権の代表入り。スウェーデンのイエテボリで開かれた世界選手権の予選で27分48秒55と、瀬古の学生記録を17年ぶりに更新した。昭和53年と平成7年。元号は違ったが、どちらも早大の学生が、同じスウェーデンで学生新記録を樹立した。

「早大は当時としては考え方が進んでいて、海外遠征もエージェントを通して独自のルートで行ってました。だからこそ、出場する以上は一番になるぞと臨んで必ず結果を出しましたよ。出さなかったらただの海外旅行ですから。そういった瀬古さんのマインドを叩き込まれていたおかげで、記録を出すことができました」

海外で学生記録を出すパターンは、竹澤健介(早大、27分45秒59=07年)、鎧坂哲哉(明大、27分44秒30=11年)、大迫傑(早大、27分38秒31=13年)と受け継がれていった。

駅伝は速い選手がいるだけでは勝てない

1万メートルの学生新を出すことには成功したが、4年生のときの箱根駅伝2区では、自身が前年に出した区間新記録に6秒届かなかった。トップの亜大から37秒差の9位でタスキを受けたが、前にいた8人を2.5kmまでに全員抜いた。さすがの渡辺をもってしてもオーバーペースだった。

「最後の箱根駅伝で勝ちたい気持ちが強かったですし、記録も破りたかった。突っ込みすぎたらダメだとわかっていたのに、気持ちをコントロールできませんでした」

この年は山梨学院大が1区で区間15位とブレーキ。マヤカも区間3位で、初めて渡辺以外の選手に敗れた。二人はついに、箱根駅伝で肩を並べて走ることなく4years.を終えた。

だが渡辺はマヤカとの対決のことよりも、チームが勝てなかったことが心に引っかかっていた。全日本は4連勝できたが、チームとして最大の目標だった箱根駅伝では、1年のときしか勝てなかった。キャプテンを任された4年のときは、3年間優勝争いを繰り広げた山梨学院大が4区で途中棄権したが、中大に4分半の大差をつけられた。

いま思うと、キャプテンとしてもっとできたことがあったのではないか。そんな気持ちが残る

「下の選手を育てられませんでした。いま思えば、キャプテンとしては何もしてなかった。個人として強さを見せることが、チームのためになると思ってたんです。駅伝だったら区間賞を取ればいい、区間新を出せばいい、と。指導者になってから、駅伝は速い選手がいるだけでは勝てないのだと分かりました」

平成を振り返ると、「華々しかったというより、失敗が糧となっている印象が強い」という。マラソンで成功できなかったこともそうだし、チームで結果を出したい気持ちが強かっただけに、箱根駅伝の成績には悔いが残る。指導者としても、育てきれなかった選手が何人もいた反省がある。

だが、それらの経験があったから早大の監督として、竹澤を56年ぶりの現役学生トラック長距離種目の五輪代表に送り込み、大迫が飛躍する基礎を固める指導ができた。そしていま、住友電工の監督として、チーム全員を強くするために奔走する指導者となっている。

本人の印象はともかく、学生ランナーとしての渡辺康幸の客観的な評価は、“平成のレジェンド”と呼ぶにふさわしい。「大迫は50年に一人、瀬古さんは100年に一人の選手です。僕は10年かな」と渡辺は謙遜するが、平成にちなんで“30年に一人の選手”と言っても、誰も異論はないだろう。

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