大学陸上・駅伝

東洋大時代の不完全燃焼感と悔しさが、活躍への原動力に MHPS定方俊樹(上)

2013年の箱根駅伝では5区を担当。箱根湯本を走る定方(代表撮影)

定方俊樹(東洋大~MHPS)は今年3月の東京マラソンで2時間7分05秒と日本歴代9位の記録をマークし、日本代表を狙うランナーの仲間入りをしました。28歳と遅咲きのランナーは、ここに至るまでどのような軌跡を描いてきたのか、2回にわたり紹介します。前編は、東洋大学時代の思い出と課題についてです。

「柏原の翌年」だから起きたブレーキ

「負けたのは僕のせいです。2分近い差のトップで襷(たすき)を受けたのに、往路優勝の日体大から3分近い差をつけられてしまった。客観的に見たら敗因は明らかでした。(翌日の大手町のゴールでは)泣くことすらできませんでした。4年生たちが泣いているのを見たら申し訳なくて……」

定方俊樹が東洋大3年時(2013年)に、箱根駅伝山登りの5区を走った感想である。

定方は2位の日体大と1分49秒差のトップで小田原中継所を出たが、15km手前で服部翔大(日体大3年、現日立物流)と山本修平(早稲田大2年、現トヨタ自動車)に並ばれた。「最初の5kmは予定より約1分遅かったのですが、その後はそこまで悪い感覚がなくて、気がついたら2人が横に来ていました。そこで硬くなってしまったんです」

500mほど食い下がったが、すぐに2人に引き離された。1時間25分03秒で区間10位。往路フィニッシュの芦ノ湖では日体大に2分39秒差をつけられて3位で走り終えた。東洋大は復路で2位に上がったが、日体大には逃げ切られてしまった。

15km手前で服部と山本に抜かれ、3位に後退した(代表撮影)

東洋大の5区は前年まで柏原竜二が4年連続区間賞(09~12年)の激走を続け、その間、09年の初優勝を含め3回優勝した。柏原の印象が強烈に残っていたこともあり、区間10位でも「ブレーキ」と世間からは見られてしまった。定方は区間賞の服部には4分28秒差をつけられたが、区間4位とは58秒差だった。そこだけを見ればブレーキとは言えないが、山登りという差がつきやすい区間で、柏原の後任という特殊な状況が悪い印象を与えてしまった。

ケガが多かったが、練習と上りでは強さを発揮

定方は長崎県の川棚高出身。インターハイなど全国大会入賞の実績はなかったが、高校3年時(09年)に5000mを14分11秒86で走った。当時の日本人高校生リスト1位の油布郁人(駒澤大~富士通~引退)とは9秒09の差しかなく、同学年の大迫傑(現ナイキ)、設楽悠太(現Honda)、設楽啓太(現日立物流)、服部、1学年下の市田孝(現旭化成)、村山謙太(同)ら、その後も活躍する選手たちとも数秒差だった。

東洋大では設楽兄弟、大津顕杜(現トヨタ自動車九州)、延藤潤(現マツダ)らが同学年にいたが、1年時からずっとAチームを続けたのは設楽兄弟と定方の3人だけ。1年時(10年)の出雲全日本大学選抜駅伝で設楽兄弟とともに学生駅伝デビューを果たし、4区を区間8位で走っている。

練習では強かった、と思い返す定方(2019年3月撮影、寺田辰朗)

だが学生時代を通じ、定方は故障に悩まされ続けた。1年時は10月の出雲後に脛(すね)を、2年時は11月に左股関節を痛めて駅伝に出場できなかった。それでも3年時は練習を継続でき、5月の関東インカレはハーフマラソンの東洋大メンバー3人の中に入った(22位)。10月の出雲長距離記録会5000m(出雲駅伝控えの選手によるレース)では3位に入り、14分06秒36と自己記録を3年ぶりに更新した。

そして定方は、練習では強かった。特に上りを走れば、「啓太の次くらい」と自他共に認めていた。

「柏原さんが卒業された後のチームの戦力を見たら、啓太は2区か3区で区間賞を取れる選手でしたから、5区は自分が走るべきだと思いました。柏原さんのタイム(1時間16分39秒=23.4kmだった当時の区間記録)は無理でも、練習のデータから1時間20分で走れる手応えもあったんです。注目されるのはわかっていましたが、それも楽しみだと考えられました」

初の箱根駅伝を前に定方の気持ちは、アスリートとして良い高ぶり方を見せていた。

最後の箱根駅伝はサポートとして優勝の喜びを噛みしめた

だが定方には、大一番に力を発揮できないという弱点があった。試合に向けて気持ちを盛り上げられても、本番直前に問題が出る。これはマラソンで失敗していたときの話だが、大会が迫ると仕事中にレースのことを思い浮かべてドキッとしたり、眠れなくなったりした。そういったメンタルを強引にコントロールしようとして、逆に気持ちの面で力んでしまう悪循環に陥った。

大学3年時も同様だった。柏原の後継者として臨む大舞台を、「楽しみ」と感じていたのは事実だが、箱根駅伝が近くなるとプレッシャーが大きくなっていた。「数日間、全然眠れませんでした。前日だけ眠れたのですが、緊張が続いたことに疲れてしまったのかもしれません」

2013年の箱根駅伝、2位に終わり泣き崩れるアンカーの冨岡司ら(代表撮影)

原因などは後ほど触れるが、当時の定方はレースにピークを合わせる能力もなかった。「今から思えば、練習の仕方に問題がありました」

4年時も脛の故障で、箱根駅伝は12月10日のチームエントリーに入れなかった。それでも1、2年時とは違って「最後までやりきった結果」と受けいれ、サポートという立場に積極的に取り組んだ。

「クリスマス以降はエントリー選手が1人で部屋を使えるように、外れた選手は帰省したり他の部屋に移ったりするのですが、僕は他の部屋に移って掃除など下級生がやる仕事をやっていました。練習ではタイムを測ったり、ロードを走るときの交通整理をしたりしていましたね。レースでは4年生が走った5区(設楽啓)と10区(大津)の給水をしました。大津は直前まで調子が悪かったのですが、金栗賞(箱根駅伝の最優秀選手)の走りをしてくれた。給水をしながら感動して泣いていました」

2014年の箱根駅伝、笑顔で優勝のゴールテープを切る大津(撮影・朝日新聞社)

箱根駅伝の直後は「うれしかったですよ」と、最上級生でのV奪回の喜びに浸った。だが卒業が近づくと、自身の学生競技生活の不甲斐なさにさいなまれた。

「不完全燃焼感が強くて、実業団では『活躍した仲間に絶対に勝ってやろう』と自分に誓いました。他大学の選手と競り合う機会も交流することもなかったですから、東洋大の先輩や同期たちを意識することになります。ニューイヤー駅伝や九州実業団駅伝で同じ区間になると、気持ちが奮い立ちましたね」

自身の大学4年間への悔しさが、実業団で飛躍する原動力となった。

後編はこちら!

実業団で自身を見つめ練習を継続、ついにつかんだ飛躍 MHPS定方俊樹(下)

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