陸上・駅伝

実業団で自身を見つめ練習を継続、ついにつかんだ飛躍 MHPS定方俊樹(下)

今年3月の東京マラソン、両手を広げてゴールする定方(撮影・佐伯航平)

定方俊樹(東洋大~MHPS)は今年3月の東京マラソンで2時間7分05秒と日本歴代9位の記録をマークし、日本代表を狙うランナーの仲間入りをしました。28歳と遅咲きのランナーは、ここに至るまでどのような軌跡を描いてきたのか、2回にわたり紹介します。後編は、実業団に入り結果を残すようになるまでです。

東洋大時代の不完全燃焼感と悔しさが、活躍への原動力に MHPS定方俊樹(上)

2年目から全ての駅伝メンバーに入り活躍

定方はMHPS入社1年目の2014年5月に14分03秒99と5000mの自己記録を更新したが、夏に右脛(すね)を故障して秋以降のレースに出られなかった。駅伝メンバー入りも逃した。だが2年目からは11月の九州実業団駅伝、元旦のニューイヤー駅伝は全て走り続けている。2年目のニューイヤー駅伝1区区間8位は、自身も驚く好成績だった。

3・4年目の九州実業団駅伝はアンカーの7区で連続区間賞。2位で襷(たすき)を受け、逆転優勝のテープを切る展開も2年続けて同じだった。ニューイヤー駅伝では3年目に7区区間7位でチームの初入賞(4位)に貢献する。4年目は箱根駅伝と同じ5区を任され、奇しくも同じ区間10位だった。ニューイヤー駅伝の5区は主要区間の1つで、有力選手の数は箱根駅伝とは比べものにならないほど多い。その区間で1人を抜き、チームの連続入賞(8位)を支えた。

2019年のニューイヤー駅伝、トップで来た井上から襷を受け取る定方(代表撮影)

そして5年目のニューイヤー駅伝(19年大会)は5区区間3位の好走を見せ、4区の井上大仁でトップに立ったポジションをキープ。MHPSは最終7区まで旭化成と優勝争いを演じて2位に入った。

自身の状態を把握し、質の高い練習を積む

ニューイヤー駅伝が行われる上州路には、学生時代とは明らかに違う定方俊樹がいる。それができた理由を定方は「自分で練習を調整できるようになったからです」と話す。

質、量とも高いレベルで練習ができるのは学生時代と同じだが、自身の状態を把握したなかで練習ができるようになった。自身を見る能力が、大学卒業後に上がり続けている。

「負荷の高い練習をしますが、走れば走るだけ強くなるわけでないことが卒業後にわかりました。限界までやって終える練習なのか、そうではないのか。また、試合当日までの流れ、体の仕上がり具合などを調整することがわかってきました。学生の頃は試合までを考えられず、決められた練習を、すべて全力で行うことしか考えられませんでした」

東洋大では駅伝メンバーのボーダーラインにいた。ポイント練習で弱みを見せたらメンバーに選ばれないので、無理をしてでも外さないように走った。そして強くなるために、ポイント練習以外の各自で行うジョグなどでも追い込んでいた。それが慢性的な疲労や、度重なるけがにつながった。真面目な性格が裏目に出てしまったのだ。

実業団に入り、自分の状態を正しく把握できるようになったという(撮影・寺田辰朗)

「自分の考え方が狭かったし、相談も上手くできませんでした。酒井(俊幸)監督や奥さん(酒井瑞穂現競歩コーチ)がよく声をかけてくださったのですが、自分がどういう状態なのか、どうしたいのか、はっきりと説明できなかったんです。精神的にも未熟でした。実業団では監督やスタッフと相談できるようになり、自分の状態に合わせた練習ができるようになったのです」

定方はマラソン練習でも、18年アジア大会金メダリストの井上(自己ベスト2時間06分54秒)に匹敵する練習ができる。そこは「ダテに東洋大で4年間を過ごしたわけではありません。実業団でしっかりできる下地があった」と、学生時代をプラスにとらえている。だが、その練習をしてオールアウトしてしまうのでなく、「井上より余裕を持って終わるようにする」ということもつねに意識している。実際には井上より余裕を持ててはいないが、「そこを意識できていることは成長」だと実感できる。

学生時代には実績の違いも大きかったが、「設楽兄弟に勝とう」という発想がなかった。自分と同じポイント練習をして、どうやったら試合であそこまで走れるのかまったくイメージできなかった。故障明けで区間賞を取ることもあった兄弟のことを、「能力が自分とは違う」と思っていたという。

それに対して実業団では、どうすれば井上のレベルに行けるのか、道筋がイメージできるようになった。今は「井上に勝ちたい」と本気で考えられるようになっている。

マラソンで結果が出ない期間にも充実感

定方はマラソンでも、すぐに結果を出せたわけではない。25歳で初マラソン、28歳で初のサブテン(それが2時間07分05秒の日本歴代9位と一気に飛躍したが)は、遅咲きと言っていい(表参照)。

実業団で練習が継続できると、駅伝では結果を出せるようになった。メンタルもコントロールできるようになり、ニューイヤー駅伝では大学3年時の箱根駅伝のように、プレッシャーで走りが狂うことはない。

しかしマラソンでは、同じことができなかった。練習の組み立て方にも問題があった可能性はあるが、前述のように、レース前に緊張する自分を意識しすぎてしまった。昨年の東京マラソン前も2時間8分台の手応えがあったが、低温と雨のため30km以降でペースダウンした。メンタル面の落ち着きも、今年と比べると完全ではなかった。

2019年の東京マラソンは低温と雨のため、力を発揮できなかった(撮影・藤井みさ)

「先輩の松村(康平・14年アジア大会銀メダリスト)さんから眠れないのは当たり前だと聞き、今年の東京マラソン前は色々な不安要素を気にしなくなりました」

マラソンで結果を出すまで3年間。初マラソンから1~2年で2時間6~8分台の結果を出した大迫、設楽悠、井上らに比べれば、成長曲線はかなりゆるやかだった。それでも、「自分のマラソンにとって必要なことは何かを考えて、試行錯誤をしてやってみて、上手く行くと楽しいと感じられます」と、「産みの楽しみ」のような充実感をもって取り組めている。

具体的には「スタミナやスピードの改善よりも、走っているときの力の入れ方や体の使い方、メンタル面のコントロールの仕方」などだが、あきらめずに粘り強く、一つひとつ課題と取り組んでいく際には学生時代の経験が役立っていた。

その1つが、東洋大で行われていた学生同士のミーティングだった。

真剣そのものだった東洋大のミーティング

東洋大のミーティングは真剣という以上に、激しさがあった。勝つために何が必要か、学生同士が本気の意見をぶつけ合う。まずは同学年間で話し合い、さらには全体で話し合う。先輩が後輩にアドバイスするのは当然だが、後輩から先輩に厳しい指摘が出ることもあった。その真剣度がすさまじいから、練習はもちろんのこと日常からしっかりと競技に向き合える。東洋大に涙を流す選手が多いのは、それだけ真剣に取り組んでいるからだ。

今年3月の東京マラソンで、力強いラストスパートをみせる定方(撮影・藤井みさ)

定方はミーティングが熱くなった例として、「5大会連続2位だったとき」を挙げた。定方が4年時の箱根駅伝で優勝するまで、東洋大は学生3大駅伝で負け続けていた。

「チームに何が足りないのか、がテーマでした。今どんなところがダメなのか、それはこういうことなんじゃないのかと、全員が熱く語り合いました。選手同士が衝突することもありましたが、雨降って地固まるじゃないですけど、ミーティングを経て目標に向かうチームの力が強くなりました」

正しい結論はないことだったのかもしれないが、足りないことを見つけようと全員が心を一つにすることが重要だった。卒業してそう感じるようになった。

そうした学生時代の経験を、実業団選手が個人として結果を求めることに置き換えたとき、頑張る方向性が見えてきた。マラソンでやるべきことの理解を深めることで、一気に日本歴代9位まで達した定方。東京マラソンでは設楽兄弟にも初めて勝つことができた。

その一方で東京マラソンが、気象コンディションやレース展開に恵まれていたことも認識している。定方にとって「走りきること」が最重要課題で、勝負よりも自分の走りに集中するだけでよかったレースでもある。

同世代に比べて遅咲きかもしれない。だが、確実な手応えが定方にはある(撮影・寺田辰朗)

「30kmまで1時間28分台で走った井上のように、世界とは勝負していませんでした。世界と戦うことを目標としたり、代表を狙って走ったりしたときに、どういう結果を残せるかが次の課題になります」

遅咲きの定方には、タイムより内容こそが重要なのだろう。MHPSの黒木純監督からは、2時間8~9分台を安定して出すことも意味があるとアドバイスされた。自己ベストを更新できなくても、内容が伴っていればいずれまた、記録も大きく伸ばすことができる。

東京オリンピックには間に合わなかったが、24年のパリオリンピックを狙っていくと明言した定方。東洋大で苦しんだ4年間や、チームメイトと激論を交わしたミーティングなどを思い出しながら、パリオリンピックまでの期間でマラソンへの理解度をさらに深めていく。

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