インタビュー

特集:第50回全日本大学駅伝

留学生疾風の系譜 山梨学院の足跡

留学生疾風の系譜 山梨学院の足跡
うえだ・まさひと 1959年香川県出身。中学時代から陸上長距離で活躍。尽誠学園高から順大に進み、駅伝では2~4年に箱根5区の山登りを走り2度の区間賞を獲得、2度の総合優勝に貢献。中学教員などを経て、85年に山梨学院大講師となり、現在は教授。同大陸上競技部監督。関東学生陸上競技連盟の駅伝対策委員長。

今秋に50回の節目を迎える全日本大学駅伝で、強烈なインパクトを残しているのが山梨学院大だ。優勝はないものの大会最多10度の2位。ケニア人留学生の追い上げが印象に残る。上田誠仁監督と、OBの真也加(マヤカ)ステファン・桜美林大監督に、留学生ランナーの先駆けとなった歩みを振り返ってもらった。第50回大会(日本学生陸上競技連合、朝日新聞社、テレビ朝日、メ~テレ主催、JAバンク特別協賛)は11月4日、名古屋・熱田神宮~三重・伊勢神宮の8区間、106.8キロで開かれる。

監督2年目、「起爆剤」求めケニアへ

「切り取られたような青空。(甲府)盆地から眺めた空は四国の人間にはそう見えた」

空はユニホームとたすきの色になった。仰ぎ見たのは、地元香川で就いた瀬戸内海の島の中学体育教員から山梨学院大に転身した26歳の上田誠仁監督だ。

「空は高い山につながっている。世界を目指す選手が育ってくれれば、という中で尾方君や大崎君、井上君らが出てきた」

2008年北京五輪男子マラソン代表の尾方剛(現広島経大監督)と大崎悟史(現山梨学院大コーチ)、今年2月の東京マラソンで2時間6分台の井上大仁(MHPS)ら、卒業後に花開く選手も多い。1985年、強化がゼロから始まってから34年になる。

「5年あれば出られるかと言われたが、1年目の学生が捨て駒になってしまうので4年以内にした」

現役時代に順大で活躍した青年監督は、目標を上回る2年という早さで、箱根駅伝の初出場を決めた。その選考会の約10日後、ケニアに渡った。

「イカンガー(タンザニア)とかデンシモ(エチオピア)とか、東アフリカが注目され始めたころ。ケニアのワキウリがエスビー食品に来た。選手の自信や起爆剤になることを考えたらどうだろうか、来るかどうか分からないがアフリカは強いから行ってみよう、行きやすいのはケニアだろうとなった」

行くと、スカウトに来ているのはだいたいヨーロッパのクラブかアメリカの大学だと言われた。

「日本は珍しがられた。大学で駅伝というものをやっている、走る能力より勤勉で学ぶ気持ちを持つ学生がいたら、と伝えたら、すごくまじめな選手がいる、と紹介された」

急速に強豪化、チームに自信生んだ

オツオリ、イセナの来日が決まり、付属高を経て88年に入学。ここから留学生の活躍が始まった。創部5年目の89年に3回目の出場となった全日本大学駅伝で3位。6年目は全日本、箱根とも2位。7年目で初優勝した箱根は4年間で3度の総合優勝。急速に強豪となり、「助っ人」と言われた。

「留学生がチームに風穴を開け、パイオニア的に頑張っていくぞとか、やれるんじゃないかという自信を生んでくれた。ケニア人ならみんな速いわけじゃない。日本と同じように、気が長い、短い、なじみやすい、なじみにくいなど、人それぞれ。うちには北は北海道、南はケニアまでいると言っている」

現在4年のニャイロ、1年のオニエゴまで、計11人の留学生をケニアから迎え入れた。

「今は実業団にも海外選手がごっそりいる。大学と違って給料や出場報酬がもらえる。ケニアに帰ると、実業団に行った選手の家は土地を買った、お前は何をしているのと親戚に言われた選手もいる。大学をやめて実業団に行こうか迷ったが、やっぱりチームのために頑張ると残った選手もいた。理解してくれたのはありがたかった。来たのはほとんどがキシイという部族。人の交流は途切れると戻すのは大変。時代が変わっても続けていきたい」

留学生疾風_2
まやか・すてふぁん 1972年ケニア出身。90年12月に来日して山梨学院大付高入学。92年山梨学院大に進み、全日本大学駅伝で3年連続区間新を記録し、出雲駅伝4連覇、箱根駅伝の2連覇に貢献。同学年の早大・渡辺康幸と競い合った。実業団で走った後、2005年に日本国籍取得。13年に桜美林大の駅伝監督に就任。

キシイの先輩目標、優勝したかった

大学での生活、練習は日本の選手たちと同じ。寮で電話やご飯の当番もした。みそ汁も作った。僕は日本語学校へ行き、大学で授業を受け、グラウンドへ行って、寮に帰る。8キロや10キロの移動はチャリンコ(自転車)。携帯電話もなかった。今の留学生に僕のした生活はできないと思う。

ケニアでは朝6時に起きて練習するなんてありえなかった。時計もなく、練習は適当にあっちまで行って帰ってくるだけ。アメリカの大学から誘いの手紙が来ていたらしい。だが、オツオリが同じキシイで、学校まで来て、僕と2人が選ばれた。1990年12月に日本へ来て、箱根駅伝を見てから、高校に1年通って山梨学院大に入った。一緒に来た1人は半年くらいで里帰りして、そのまま戻ってこなかった。

オツオリから、まず言葉を覚え、マナーを守り、厳しいけど我慢を、とアドバイスをもらった。大学は入れ替わり(在学期間は重なっていない)。彼が有名で、悔しくて、勝ちたいと思っていた。全日本は彼の区間記録を破ったことが楽しい思い出。優勝したかった。

大学卒業後、日本で働きたいと考えていた。そのために練習して区間賞をとろうという気持ちだった。でも、自分が大学の監督になるとは。山梨学院大の経験が生きているが、時代が違うので、(練習メニューは)距離を減らすとかアレンジしている。不安やストレスにならないようリフレッシュさせている。

今は実業団にも外国選手が大勢いるが、大学で駅伝に出る方が有名になれる。名前を覚えてもらえることで将来につながる。

※本記事は朝日新聞2018月5月30日付朝刊より転載

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