MGC出場の福田穣さん、今夏からプロランナーへ! 心に刻むJUST DO IT.
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は、昨年MGCに出場された福田穣さん(29)のお話です。大牟田高校では全国高校駅伝に2度出場。国士舘大学では箱根駅伝、全日本大学駅伝にも出場しました。実業団・八千代工業、西鉄を経て、今年8月からプロランナーに転向しました。
陸上を始めた驚きの理由!?
福岡生まれ、熊本育ちの福田穣さん。こどものときから「人がマネできないようなことをしたい、人と違ったことが好きなタイプ」だったそうです。
中学の時はソフトテニス部で過ごします。部活を引退したある日のこと。「友達から漫画を借りたくて、その漫画を持っていた友達が陸上のミーティングに行かなきゃいけなかったんです。どうしてもその日に読みたくて友達のことを待っていました。そうしたら当時、体育科のボス的な先生に誘われて、断ることができず、自分も陸上の練習に参加することになっちゃいました(笑)」
とまったく前向きではない理由で次の日から陸上の練習に参加することに。ところが、思わぬ嬉しい出来事も。「当時、気になっていた女の子が陸上のメンバーだったんです! 気になっていたし、毎日会えるから行ってもいいかなみたいな感じでした(笑)」。ちなみに、この方がのちの福田さんの奥様になります! 当時は恋も実らず、お付き合いされるようになったのは社会人になってからだったそうですが、すごいご縁ですね!
さて、話は陸上に戻ります。
「最初は全然ついていけなかったんですけど、1カ月くらい練習したら1500mで40秒タイムを縮めたんです!」という驚異的な伸び率で、駅伝の地区大会では1区を任されました。福田さんがいた地区はとても強い学校が揃っていたそうですが、1区では積極的にレースを引っ張り、全国大会出場経験のある他校のエースと秒差で襷(たすき)リレー! この活躍により、福岡県の名門・大牟田高校から声をかけられました。
名門・大牟田高校での3年間
大牟田高校に入ってからは「とにかくキツかった。同級生に負けないようにと練習を積みました!」。高校2年の都大路では4区を走りました。「ロードレースや記録会では走れていましたが、駅伝では結果が出ていなかったんです。積極性と無謀を勘違いして、襷をもらって最初から突っ込みすぎていましたね(笑)」と駅伝ではなかなか結果を出せませんでした。
3年生の九州高校駅伝では脱水症状によりブレーキ。当時は長い距離への不安もあり「自分に自信が持てなかった」と言います。
都大路では6区を走り、区間5位という成績も「主要区間を走れる力があったのに、つなぎ区間ということで、これくらいは走らないと、という感じでした」と振り返られました。
国士舘大学で全日本、箱根に出場
高校卒業後は国士舘大学へ。「知っている先輩が入っていることもありましたし、当時の監督が熱心に声をかけてくださったんです。また、体育の教員免許がとれることも決め手となりました」と国士舘大学入学の経緯を教えていただきました。
2年生の時に全日本大学駅伝出場。「チームとしては20年ぶりの全日本でした。区間9位ということで、当時持っていた自分の力は出せましたが、欲を言えばもう少しいけたのではと思います」
箱根駅伝には3年生の時に出場。往路の1区を走りました。この年は超ハイペースでレースが進みました。5km、10km、15km、ハーフ通過、すべて自己ベストを上回るタイムでした!
「早稲田大学の大迫傑選手が飛び出して、日体大の服部翔大選手がついていったんです。当時は10000m29分18秒がベストでしたが、10kmを29分02秒で通過でした! かなりのハイペースなのに、なぜこんなに大集団なんだと思いました(笑)。ビビりながら走っていましたね(笑)」。すべての地点で自己ベストを上回る力走をみせ、区間15位という箱根路デビューとなりました。
恩師の言葉に奮起! MGCファイナリストに!
大学卒業後は実業団・八千代工業に進み、ニューイヤー駅伝にも出場しました。初マラソンとなったのは入社3年目、2016年3月のびわ湖毎日マラソン。
「5kmで離れて、ずっと自分のペースで刻んでいたら、順位を上げていけたんです。これはそれなりにいけると思っていたら32kmからまったく足が動かなくなりました。呼吸は余裕があるのに、35km以降はもがいてもがいて、結果は2時間19分06秒。これがマラソンか! と思いましたね」。マラソンの洗礼を受けた初マラソンとなりました。
八千代工業で3年間過ごし、西鉄へ移籍します。移籍1年目(2016年)の北海道マラソンでは9位。ちょうどその頃、高校の恩師・赤池健監督から「並の選手になるんじゃない! もっと本気でやってみろよ!」と声をかけられたそうです。
その言葉で思い出したのが九州の実業団チームの合同合宿でのことでした。「九州の実業団合宿は午後ポイント練習をやるのに、MHPS(現・三菱重工)の選手たちは朝練をやったあと午前中もしっかり走るんです。だから強いんだと思いました。当時はすごいなって思っただけでした(笑)」
しかし、恩師の言葉によって合宿で感じたことが強く思い出されました。「そもそも自分より強い選手があんなに練習をやってるんだから、このままでは一生追いつけない! なんの覚悟も持ってやっていないということに気づかされました!」
練習量だけは誰にも負けないように取り組んだというトレーニングを経て、迎えた翌17年の北海道マラソンでは3位に。福田さんと同い年でずっと世代トップを走り続けてきた村澤明伸選手(日清食品グループ)と40km過ぎまで競り合ったことで「ものすごく自信になりました!」という福田さん。
「4カ月4000kmでダメだったら、もっとやろう!」とさらにトレーニングに打ち込みました。その結果、「どんどん伸びていきました」と、なんと全種目で自己記録を更新。
18年のゴールドコーストマラソンでは2時間09分52秒で初のサブ10を達成しました。「応援も近くて、景色も良くて、高揚感がありましたね。30km地点でも余裕があって楽しんで走っていました」という余裕度。
MGC出場権をかけて、12月の福岡国際マラソンに出場しました。MGCの出場権を獲得できるワイルドカードでいければと思っていたところ、2時間10分54秒で7位。MGC出場権獲得済みの上位2選手を除き日本人3位となり、MGCファイナリストとなりました。
必死で走りぬいたMGC
迎えたMGC本番。「独特の緊張感があって、舞い上がっていましたね。自分の力を発揮できなかったです。強いメンバーが揃って、速さだけでなくて強さも兼ね備えていないとこの舞台に立てないです。周囲は学生時代から活躍していて自分は日本代表経験もない劣等感を感じていました。なんとかしなきゃという焦りもありました」。レース前から様々なプレッシャーがあったんですね。
レース中は細かい揺さぶりがありました。「テレビでは伝わらないような100m単位でペースの上げ下げがありました。急にダッシュしたり落としたり、それなのに1km3分09秒だったり、一時期、最下位を走っていて焦りましたね」
その逆境の中でも「粘りが強みですし、何かしら応援してくれる方へ何か見せ場を作らなきゃと必死でした!」。必死で走り抜いたMGCは22位という結果でした。
プロランナーに転向
東京オリンピックに向けてファイナルチャレンジとなった昨年の福岡国際では、2時間10分33秒で3番目にフィニッシュ(のちに1位の選手のドーピング違反により順位が繰り上がり2位に)。
「MGCの後ということもあって、びっくりするほど応援されました!」。普段から一般のランナーさんと話す機会が多いという福田さん。大濠公園で声をかけてくださった方が現地で応援してくださるそうで、普段から声をかけられたら一緒に走ることもあるそうです!
「社会の先輩ですし、いろんなランナーさんはそれぞれいろんなお仕事をされていて、そういう話を聞くのも好きです。業種も様々で勉強になることが多々あります」。話しやすく親しみやすい福田さんのお人柄、どんな方の話も吸収しようと積極的な姿勢が伝わってきます。
今年8月には西鉄を退社してプロランナーに転向しました。
「ナイキさんのスローガンであるJUST DO IT .という言葉をサインにも書いています。思い立ったら吉日、今だからやろう、今しかできないと思ったらすぐ行動です!」
中学時代の憧れの人で、社会人になってから交際を経て、結婚された奥様は「中途半端にやるのはどうかと思う。本気だったらついていく」と福田さんの挑戦を後押し。会社も理解して応援していただいた、と感謝の気持ちを話されました。
プロ転向後はVirtual Distance Challenge (バーチャレ)で中学生、高校生の皆さんの記録挑戦を走ってアシストし、会場を盛り上げました。
「今後は海外のレースにも出たいですし、ケニアで合宿もしたいですね! 思い切ってやりたいです。プロになったからこそできることがたくさんあると思うので、とにかく自分の引き出しを増やしてチャレンジしていきたいです! スポンサーさんも募集しています!」
プロランナーとしてJUST DO IT.を心に刻み、新たな一歩を踏み出しました!
自ら行動、スポンサーも募集しながら新たな挑戦は始まったばかり。常に現状を打破して行動し続ける福田穣さんのさらなる活躍に期待ですね!