陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

元早大主務の行場さん、ランナーに戻って100km世界選手権2位に

行場さん(左)は昨年9月、日本代表として初出場した100km世界選手権で銀メダルを獲得しました(写真は本人提供)
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私、M高史と同じく現役時代はマネージャーで、その後も深く駅伝に携わっている方を紹介するシリーズの第3弾です。今回は早稲田大で主務を経験し、昨年9月にクロアチアで開催されたIAU100km世界選手権で銀メダルを獲得した行場(ぎょうば)竹彦さん(33)。行場さんはなぜまた走り始め、どのようにして力をつけてきたのでしょうか。

中学時代は相撲で全国大会へ

「両親が市民ランナーだった影響で、4歳のころにはマラソン大会に出場してました」という行場さん。ぜんそく持ちで、克服するため小5のときから週3、4回は5kmほど走っていたそうです。

市民ランナーだったご両親と一緒に走る行場さんです(写真は本人提供)

中学に入ると陸上部がなくて、代わりに相撲部とバレーボール部に入ります。相撲部では団体で全国大会に出場する活躍ぶりでした。ただ、全国大会本番は補欠だったそうです。当時は53~54kgほどの体重で、80kg以上もある選手たちと戦っていました。このときに鍛えた強靭な足腰が、100km世界選手権の銀メダルにつながったのかもしれません。

相撲とバレーに明け暮れた中学校生活でしたが、駅伝にも出ました。川崎市では学校対抗で走る機会があり、3000mの自己ベストは10分38秒でした。地元の進学校である神奈川県立多摩高校に進学。ちょうどその年、県立生田東高校を全国高校駅伝に導いた深谷昌昭先生が異動されてきたため、いきなり陸上部の練習がキツくなったそうです。

「意外といいものを持ってる。ただ練習では強いけど、本番で出しきれてない」。深谷先生からこう激励されながら本格的に走り始めた行場さんは、飛躍的に記録を伸ばしていきました。高校時代の自己ベストは5000m15分20秒。勝負どころになると、ぜんそくがぶり返すこともあったそうです。

多摩高校時代、行場さん(右から2人目)は深谷先生の指導で力をつけてきました(写真は本人提供)

駅伝メンバーに選ばれていた同級生たちは、陸上だけなく勉強の成績もよかったそうです。行場さんも勉強に力を入れ、指定校推薦で早大へ進学しました。

早大同期との話し合いでマネージャーに転向

早大入学後はすぐに競走部に入部するも寮には入れず、所沢キャンパスに近い小手指駅の周辺で一人暮らしをします。グラウンドまでは約4.5km。「当時、早稲田の競走部では自転車が禁止だったため、朝練の往復は走って移動してました。朝練のたびにグラウンドまで片道4.5km走って、全体練習で10kmほど走り、再び4.5km走って帰って……。いま思うと朝からすごい距離を走ってましたね」と苦笑いの行場さん。商学部生だったため、授業は早稲田キャンパス。練習は所沢キャンパスなので、移動も大変だったそうです。

当時の自己ベストは5000m15分13秒。早大では各学年で一人マネージャーを出す決まりがあり、行場さんは2年生の夏、同級生たちと誰がマネージャーになるかを話し合いました。ミーティングを繰り返した結果、行場さんがマネージャーに転向することになりました。

3年生の春からは入寮して副務に、そして4年生では駅伝主務になりました。箱根駅伝の思い出を聞いてみると、「3年生のとき、往路だけ運営管理車に乗りました。復路は相楽(豊)コーチ(現早大駅伝監督)が乗りました。4年生になると競技者バス係で全区間をまわりましたね。全日本大学駅伝、出雲駅伝に関しては当時、早稲田が久しぶりの出場だったこともあり、マネージャーのマニュアルがなくて大変でした」とのこと。

行場さんの恩師である渡辺康幸監督(現住友電工監督)についてうかがったところ「ポジティブな方で、一緒にいるだけで明るくなれる方です!! 」と、魅力を語ってくださいました。

早大時代、箱根駅伝のフィニッシュ地点で選手を迎える行場さんです(右、写真は本人提供)

卒業後に再び走り始め、福知山マラソンV

2008年に早大を卒業したあとは新聞社へ。そしてまた10年の秋から走り始めました。「大阪で実業団駅伝があり、勤めていた新聞社で出場することになりました。久しぶりのランニングは20分で心臓が痛くなりました」と行場さん。それを機に再び走り始め、2カ月後には5000m16分25秒まで走力が戻ったそうです。「せっかく走り始めたんだから、やめるのはもったいない」と継続し、1年後には5000m15分10秒の自己ベスト!! さらに福知山マラソンでは2時間25分台で優勝を飾ります。

そんな行場さんに初マラソンの印象をうかがったところ、「マラソンって意外と楽だなと思いました」と衝撃的発言!! 「体質的なものか分かりませんが、ガス欠をしたことがないんです。脂質をうまくエネルギーにする能力が高いのかもしれないです」と自己分析されていました。

13年には5000m14分44秒をマーク。市民ランナーとふれあっているうちに、よりランニングに特化した仕事をしたいという想いが芽生え、14年にはアールビーズに入社します。いまは雑誌『ランナーズ』をつくっています。「記事にあったトレーニングを実践してタイムを更新しました!! 」というランナーさんたちの声を聞くのがやりがいだそうです。「病気を克服してマラソンに挑戦する方、ランニングで自信をつけて仕事にも好影響の出た方、さまざまな成功体験に携われることがうれしいんです」と行場さんは言います。

フルマラソンで実業団の選手に勝ちたい

忙しい仕事の合間にトレーニングも継続。帰宅ラン16km(途中でジムに立ち寄り、トレッドミルで+3km)、ポイント練習の日も、さらにトレッドミルで追い込むそうです。レース出場は年14~15回!! 編集部の仕事でマラソン大会の取材に行くため、土日はほとんど取材かご自身のレースという生活です。

昨年6月の「サロマ湖100kmウルトラマラソン」では、初の100kmマラソンで3位に食い込み、日本代表に!! 「通常、フルマラソンの前は3カ月続けて500km走るんですけど、ウルトラということで3カ月続けて600km走りました。練習の一環で柴又60kmに出場しましたけど、気温30度という暑さで後半は失速しました。サロマの60km通過の方が断然よかったです」と行場さん。快挙の裏には努力の積み重ねがありました。

そして昨年9月にはクロアチアの100km世界選手権で銀メダル!! 早大時代、選手からマネージャーに転向した行場さんが、10年以上の月日を経て世界大会で銀メダルを獲得するとは、当時誰も想像できなかったでしょう。

「5000m14分台が目標だったので、もう達成しちゃいましたね。もったいないので続けてますけどね(笑い)。今後の目標はフルマラソンで実業団選手に勝ちたいのと、仕事の方でもランニングを盛り上げていきたいです。マラソンで人生が変わったという方に出会いたいですし、ランナーのことをいちばんに考えた雑誌をつくっていきたいです」

温和な表情で穏やかに語る行場さんからいただいた熱いメッセージ。これからも挑戦は続きます。

駒大の新入生歓迎会は、僕の芸人としての原点です!!

M高史の陸上まるかじり

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