元順大主務の太田涼さん、記者として現場の熱量を伝える
私、M高史と同じく現役時代はマネージャーで、その後も深く駅伝に携わっている方を紹介するシリーズの第4弾です。今回はかつて順天堂大学の主務で、現在は報知新聞社の記者として、箱根駅伝をはじめさまざまなスポーツの魅力を伝えている太田涼さん(27)の話です。
「山の神」今井正人さんにあこがれて
太田さんは福島で幼少期を過ごしたあとに山形へ引っ越し、小学2年生からサッカーを始めます。5年生でまた福島に戻ってきたらサッカーのチームがなく、担任の先生から勧められて小学校の特設陸上部で走り始めました。そして「ふくしま駅伝」(市町村対抗福島県縦断駅伝)で福島市のアンカーが優勝のフィニッシュテープを切る姿に「とてもかっこいい!! 」と感じ、駅伝に強いあこがれを抱きました。このふくしま駅伝には、中学2年生のときに初めて出場しました。
中学時代は3000mで9分5秒95が自己ベスト。全国大会の参加標準記録が9分5秒00ということでギリギリ届きませんでした。悔しかったそうですが、県大会3位で東北大会に出場しました。
高校は県立福島高校に進学。「当時強かった田村高校に勝ちたかったんです」と太田さん。意気込んで練習に励みます。しかしオーバートレーニングにより肺気胸を患うなど、思うようにいかず、振り返ると悔しい思い出ばかりの高校時代でした。駅伝ではチームとして東北大会に出場しましたが、個人種目では5000mのベストが15分20秒に終わりました。当時を振り返り、太田さんは言います。「中学では県の3番だったのに、高校では抜かれてばかりで悔しかったですね。県大会に行くのがやっとでしたし」
高校時代は目立った成績を残せませんでしたが、福島県出身で活躍する「山の神」今井正人選手(順大~トヨタ自動車九州)にあこがれ、AO入試で順大に合格します。順大陸上部長距離ブロックの同期は太田さん以外みな、スポーツ推薦組でした。
1年目は啓心寮という大学の寮に入ります。2段ベッドが4台で1部屋8人。陸上部以外の学生も一緒に生活していました。医学部の学生もいたとか。「その人の時間割をのぞいたら『カエルの解剖』なんて書いてあって、驚きました(笑)」
長距離は朝練もあるので早寝早起き。規則正しい生活です。その一方で、医学部に通う友だちは夜遅くまで勉強したり、ほかの部活の人たちも生活リズムが違っていたり。「夜にギターを弾き始める人もいましたよ。いろいろ大変でした 」と笑って振り返ってくれました。
「走れないのが僕だけで済むなら」
1年生の夏までは貧血もあってまったく走れず、全体合宿にも行けないほどでした。1年生の秋に、少し記録が伸びたそうです。そして2年生では練習を積むことができ、5000m14分台をマークします。やっと調子が上がってきたところでしたが、順大には「2年生の中から2人、箱根駅伝前にマネージャーを出す」というルールがありました。同期で話し合った結果、太田さんがマネージャーになることに。
太田さんは当時の仲村明監督に「うちの学年からはマネージャーは僕一人でもいいですか? 」と直訴したそうです。「みんな走りたくて大学に来たんです。走れないのが僕だけで済むなら、僕だけがマネージャーをやればいい」という仲間への思いからだったそうです。太田さんは勉強熱心で成績もよく、順大記録会では運営にも携わってきました。そんな仕事ぶりを仲村監督も評価し、太田さんからの直訴を承諾しました。太田さんも「(例年と)違うんだから、その意味を考えてほしい」と、同級生に発破をかけたそうです。
マネージャー転向に関して実家に連絡したところ、「決めたことなら」と応援してくれたそうです。母子家庭で育ち、お母さんに恩返ししたいと走り続けてきた太田さん。競技者じゃなくなったとしても、マネージャーとして恩返ししたいと覚悟を決めました。
1年生のときの箱根駅伝では補助員でしたが、2年生では給水を担当。「給水で走るのは50mでしたけど、うれしかったですね」と語ってくれました。
初マラソンで芽生えた記者への夢
太田さんはマネージャーながら、2年生の3月にフルマラソンを走っています。それは高校の恩師の「ロサンゼルスマラソンを走らないか? 」という提案からでした。東日本大震災の被災者を応援する「あしなが育英会津波遺児支援プロジェクト」の一環で、仲村監督も快く送り出してくれました。迎えた初のフルマラソン。東北出身のほかの大学の選手たちも出場する中、太田さんは日本人トップの2時間33分で15位に入りました。
普段はマネージャー業務に追われ、走るとしても選手の距離走に自転車で伴走する程度。まさかの好走でした。このロサンゼルスマラソンが太田さんの人生において、一つの大きな出来事となりました。
「記事にしていただいたのがうれしかったですね。友だちからも連絡がきました。それまでは体育の教員を志望していたんですけど、新聞記者っていいなと思いました。『頑張ってる人にスポットを当てて発信したり伝えていきたい』という気持ちになりました」
その後はまたマネージャーとしてチームに貢献します。4年生では主務を務めあげ、順大も三大駅伝すべてに出場。「出雲駅伝は久しぶり過ぎて、資料(チームに残っていたマネージャーマニュアル)が古くて大変でした(笑)」と、当時を振り返ります。
箱根駅伝では応援、付き添い、輸送など、大事な任務のほかに、翌年度入学予定の高校3年生を引率するという任務もありました。太田さんは当時高3だった花澤賢人、栃木渡、村島匠といったメンバーを引率しました。
「花澤は高校時代、すでに5000m13分59秒でエース候補でした。大学では強直性脊椎炎という難病に苦しみながらも、4年生で箱根のアンカーを走った姿を見たときは感動でしたね」
変わってきた箱根ランナーの意識
「幸せな環境で陸上をやれてたんだなと思います。限界に挑戦することができました」と、学生時代を振り返った太田さん。ロサンゼルスマラソンで抱いた思いのままに、卒業後は報知新聞社に入社。最初の3年間は編成部で紙面のレイアウトを担当しました。
「楽しかったですね。締め切りは大変ですけど、原稿や写真が送られてきて、どうやってカッコよくみせるか、奥の深い仕事でした」
いままで陸上一筋だったため、ほかのスポーツや芸能などについては猛勉強したそうです。デザインや美術に関する知識も皆無で、勉強のために美術館に通い出しました。勉強し始めたらハマっていき、いまでは森美術館の「年パス」を購入するほどの美術館好きになったそうです。
昨年からは運動第2部(野球以外のスポーツ全般)に配属され、取材で現場に足を運んでは記事を書く、多忙な日々を過ごしています。
「結果を知るだけだったらネットで見られます。どうすれば試合やレースの熱量が伝わるか。魅力や楽しさを発信して、読者のみなさんが選手をもっと好きになったり、陸上競技場に足を運びたくなったり、みなさんの活力につながるような記事を書いていきたいです」
箱根駅伝の取材で感じることがあるそうです。「選手たちの意識も変わってきましたね。以前は『箱根のため』ばかりだったのが、上位の選手に『箱根の先』や『日の丸』を目指してという意識の高い選手が増えてきましたし、新しい時代を感じます」と、興味深いお話も。
また、ご自身の展望については「箱根駅伝100回大会に向けて機運を高めていきたいです。選手の背中を少しでも押していけるような紙面をつくりたいですね。文字にするだけではなく、行間から読み取ってもらえるような奥深いものにしていきたいです」と、熱く語ってくれました。
太田さんは陸上、箱根駅伝に加えてBMX(自転車)、今年に入ってからは大相撲も担当することになりました。駅伝、相撲、BMXではまったく現場の空気が違うそうです。「新しいことに挑戦することで成長できますし、新たな刺激もありますから」と太田さん。主務で培った経験を活かし、アスリートたちの魅力を発信するため、読者のみなさんに喜んでいただくため、太田さんは今日も全国を駆け回っています。