早大で主務として箱根駅伝出場 道を貫いた大角重人さん
今回は私、M高史と同じく現役時代はマネージャーで、その後も深く駅伝に携わっていらっしゃる方を紹介するシリーズの第5弾です。今回は早稲田大時代に主務をしながら箱根駅伝、全日本大学駅伝を駆け抜けた大角重人(おおすみ・しげと)さん(40)です。
全中記録者を追いかけて水口東高へ
「小学校ではサッカー少年でした」と語る大角さん。走るのが得意だったことから、中学に入るときに先輩に誘われ、陸上を始めます。大角さんの中学時代(栗東市立葉山中学)のベストは3000mで9分21秒。県大会の最高成績は3位でした。県3位でも全然目立たなかったそうです。その理由は、当時の滋賀県には3000mで8分30秒70と当時の中学日本記録を持つ山崎成人さんがいて、圧倒的な実力を誇っていたからだそうです。県大会3位でも、山崎さんにはトラック1周近く離されてしまうそうです!!
1500mと3000mで全国チャンピオンになった山崎さんが水口東(みなくちひがし)高校に進学するという話を聞き、大角さんも入学します。自宅通いだった大角さんは7時から朝練があるため、6時に自宅を出発する毎日。朝練から10kmほど走っていたそうですが、スタートはバラバラに走り始めても、最後はチームメイトと熾烈なスパート合戦に(笑)。朝からかなり追い込んでいたそうです!!
2度の疲労骨折などけがが多く、高校生活の半分くらいはけがをしていたそうです。それでも恩師の小澤信一先生のご指導のもと、都大路(全国高校駅伝)には2度出場し、2年生の時に5区を担当。チームは総合9位と入賞まであと一歩と迫りました。3年生の時には4区を走りました。
個人種目では5000mで14分57秒。滋賀県大会では3位まで進めたものの、インターハイ予選は近畿大会止まり。西脇工業高校や報徳学園高校といった兵庫県勢が圧倒的に強く、近畿大会は激戦区だったそうです。
早稲田大同期に佐藤敦之さん
陸上だけでなく、勉強でも集中力を発揮しました。「勉強は定期試験に向けて一夜漬けばかりでした(笑)」と大角さん。指定校推薦で早稲田大学理工学部へ進学します。入学当初は寮ではなく、滋賀県出身者が入れる県人寮に入ります。早稲田大以外の学生も暮らす県人寮での生活が始まりました。
朝練は個人でやっていたそうです。理工学部は授業も多く、平日は授業終わってから織田フィールド、井の頭公園、武蔵野陸上競技場などで練習。たまに競走部の理工学部メンバーと一緒に走ることもありましたが、一人で走ることが多かったそうです。全体練習に参加できたのは、週末や大学が休みの期間のみでした。
当時、指導されていたのは遠藤司さん。同級生には佐藤敦之さん(現・京セラ陸上競技部監督)がいました。後にマラソン日本学生記録(当時)を更新し、北京オリンピックマラソン代表、ベルリン世界陸上入賞などのご活躍をされた佐藤さんのことを「とてもストイックで修行僧のような人でした」とお話してくれました。
1年生の夏合宿。18人の選抜メンバーに1年生からは佐藤さんと大角さんの2人が選出されました。「いけるかも」と思っていた矢先にまたけが。その後はけがに悩まされます。
早稲田大競走部の伝統として、2年生の選手からマネージャーを選出しなければなりません。マネージャーが選ばれるのではなく、将来の主務候補ですので、マネージャー業務がしっかりできそうな人など様々な理由で選ばれます。勉強の成績も優秀で仕事もバリバリこなせる大角さんは、同級生たちからも推薦されました。当時はケガをしていたものの、1年生で選抜合宿のメンバーにも入り、まだまだ駅伝メンバーの可能性も十分な位置にいました。当然「まだまだ走りたい」という思いがありました。
話し合いでもなかなか決まらず。結局、同級生でエースの佐藤さんからもお願いされました。そこで「マネージャーやるけど、あきらめずに走る」というプレイングマネージャーの道を選び、チームも了承。そこからは怒涛の「二刀流」生活が始まります。
マネージャーをしながらも自己ベストを更新
練習中は選手たちのタイム計測、自転車伴走、給水、練習の準備や片付けもします。練習のサポート以外にも試合のエントリー、合宿の手配、メディア対応など、マネージャーには様々な業務があります。さらにマネージャー業務の合間に練習、そして授業数の多い理工学部で勉強もこなしていました。いったい、いつ寝ていたのでしょうか?
「いかに効率良くやるか。そしてミスなく時間短縮できるか」ということを必死で考えました。 分刻みなハードスケジュールの合間をぬって、限られた隙間時間で効率良く練習を続けていたところ、けがせずトレーニングを継続できるようになり、むしろ走力を伸ばしているのを実感できたそうです。
3年生の3月には立川ハーフで自己ベストを更新。主務ながら競技力でもチームに必要な戦力になってきました!! ラストイヤーの6月には、全日本大学駅伝の関東予選でついに選手としてメンバー入りを果たします。ちなみにこの時、同じ第1組を走ったのは相楽豊さん(現・早稲田大学競走部駅伝監督)でした。
同じ学年のサポートもあって、マネージャーとしての役割をこなしながらも練習を継続。夏合宿を経て、出雲駅伝では補欠でしたが、同日に出雲で開催される、補欠選手たちが出場する記録会に出場。駅伝メンバー入りが現実味を帯びてきました。
そして11月の全日本大学駅伝では7区を任されます。ついに主務の大角さんが駅伝メンバーとして襷(たすき)をつなぎます。 エンジのWのユニフォームを着るのはこの時が初めて。「重みがありました」と、大角さんは振り返ります。
11月の府中多摩川ハーフでは64分39秒をたたき出し、自己ベストを更新します。箱根駅伝前はマネージャー業務もさらに多くなりますが、ほかのマネージャーたちをサポートしながら業務をこなし、さらに練習もこなすという離れ業。
12月に入ってからも調子は良好で、迎えた箱根駅伝では当日朝変更で山下りの6区を走りました。ご家族も滋賀から応援に駆けつけてくれたそうです。「緊張しました!! いまからしたらもうちょっと走れてもよかったと思います。当時はめいっぱいでしたね」とお話されました。
小出義雄監督と同席になることも
大学を卒業した後は、大角さんはトレーナーになりたかったそうです。そのため学校に通おうと思ったものの、「大学で親に金銭的に負担をかけてしまってるので、サラリーマンをして学校へ通う資金を稼ごう」と、いったん陸上から離れた生活を送ります。
社会人になって1年半後、とある早稲田大競走部のOB・OGの集まりに出席した際、先輩から「スターツ(実業団)のマネージャーやらない? 」というお誘いを受けます。最初はスターツ陸上競技部のマネージャーとして、その後はコーチとして、再び陸上の世界に戻ります。時には選手と一緒に走り、マネージャー、コーチング、そして選手勧誘のために高校や大学の大会にも顔を出します。
「思えば学生の時から学生以外の社会人の方やメディアの方々と関わってきましたから、人間関係などで、ひょっとしたら役に立っていたのかもしれません」とお話されていました。試合会場では小出義雄監督や鈴木秀夫監督といった、マラソン界の大御所監督とご一緒させていただくこともありました。当時を振り返り大角さんは「さすがに緊張しました」ということ。それでも「なんとかなる!! という心配性じゃない性格が良かったのかな」と笑顔。
コーチになって感じたことは「我慢の大切さ」でした。マネージャー業やコーチ業も裏方ですから、やって当たり前、仕事をこなして当たり前という感覚が養われたのかもしれません。花が咲くための根っこの役割を淡々とできるのは、きっと競技者だけでなく主務も経験されていたのが大きいのではないでしょうか。「結果に一喜一憂せず、やるべきこと(サポート)を全力でやるだけ」という指導スタイルも確立していきました。
実体験で指導できるよう、100kmに挑戦
スターツでの4年間の指導経験ののち、2007年からはセカンドウィンドACへ。初めの2、3年はアスリートではなく、市民ランナーさん向けの指導を担当しました。いままで陸上のアスリートと関わってきた大角さんですが、これからシューズを買ってジョギングを始めますというランナーさんを教えることになりました。「全然違いました(笑)。最初は、やってきたことをどう伝えるかとまどいましたね」
その後、SWACのヘッドコーチを経て、17年10月に独立し、株式会社イチキロを立ち上げ、代表取締役に就任。キッズから市民ランナーの方まで、幅広い世代のランニング指導やアスリートのマネジメントをしています。「知識と経験、両方とも大事です」と大角さん。指導の現場でいかに正しい知識を提供できるか。そして知識だけではなく、ご自身でも実際に経験できることは経験したいとお話されます。
指導を担当するランナーの中にはウルトラマラソンをしている方もいらっしゃるそうで、大角さんご自身も100kmウルトラマラソンに挑戦。8時間57分11秒の好タイムで完走しました。「100kmマラソンはよく60~70kmあたりがキツイと言われますけど、本当にそうなのか体を張って体験しました(笑)。これでウルトラマラソンにチャレンジされる方に、知識だけでなく経験も交えて話せます」
今後の目標については「目の前のことに一生懸命に取り組むことですね。いまをしっかり生きること。そして自分自身も磨き続けること。スランプの選手がいれば原因を突き止めて解析して声かけすること。いろんな指導法がありますから」。理路整然と話してくださいました。
早稲田大で駅伝メンバーと主務の二刀流を成し遂げた伝説のプレイングマネージャー、大角重人さんのさらなる挑戦は続きます!!