大学陸上・駅伝

連載:監督として生きる

広島からあこがれの為末大のいる法政大へ 駿河台大駅伝部・徳本一善監督1

駿河台大駅伝部で徳本は2011年にコーチを、12年からは監督をしている(撮影・小野口健太)

10月26日、東京・陸上自衛隊立川駐屯地から昭和記念公園までのハーフマラソンコースで、箱根駅伝の予選会が開催されます。今年は43校が出場し、本戦出場の10枠をかけて争います。出場校の一つである駿河台大は、徳本一善(かずよし)監督(40)の下で力を蓄えています。徳本さんといえば、法政大時代にサングラスに茶髪という独自のスタイルを貫き、箱根駅伝では1区のスタートから飛び出してそのまま区間賞に輝くという大胆なレースも披露しました。連載「監督として生きる」の第9弾として登場していただきます。4回の連載の1回目は大学までの道のり、そして元陸上選手の為末大さん(41)との関わりについてです。

歯を食いしばって頑張れる人間になれ 早稲田大野球部・小宮山悟監督(下)

AirMaxが履きたくて、バスケより陸上へ

山口生まれ広島育ちの徳本さんは、中学生のときに陸上競技と出会った。「ほぼほぼ陸上部」と口にするように、当初はバスケ部との兼部。バスケ漫画『SLAM DUNK』が好きで、好きなキャラクターは宮城リョータ。本当はバスケ部でいきたかったが、先輩が自由にバスケをさせてくれない環境だったため、しょうがなく陸上部を選んだという。

陸上部を選んだのには、もう一つ理由がある。元長距離選手の父から、ことあるごとに陸上を勧められていた。決定的に陸上に傾いたのは、シューズがきっかけだった。「父はバスケのシューズだとすごい安いのしか買ってくれなかったのに、陸上のシューズだったら『なんでもいいよって言ってくれたんです。当時、ナイキのAirMax(エアマックス)が流行ってて、ランニングシューズだったらAirMaxも買ってもらえた。『これだったら陸上の方がよくね? 』って思ったんです」。振り返ると徳本さんは陸上を続ける一つの魅力には「走ることで得られるものが増える」という事実があった。このAirMaxは、走ることで得られた最初のものになった。

生まれ持った負けん気の強さもまた、徳本さんをグッと陸上に引きつけた。小学校の校内マラソン大会では常に1位か2位。陸上をするんだったら長距離だろうと思っていた。だが入部してすぐは、長距離種目の大会出場枠が先輩たちで埋まっていたため、100mや走り幅跳びなどに取り組んだ。そして中1の秋の新人戦で、1500mに初めて出た。ビリから2番目ぐらいと、結果は芳しくなかった。「負けたままでは終わりたくない、というのはすごくあった。まずは同じ学校の子に負けたくない。そこから市大会や県大会でも負けたくないと思って走って、1番になり始めました。勝つことで陸上にはまっていったところはありますね」。そんな徳本さんの様子に父も身を乗り出し、陸上の専門誌を見せては「同じ学年でもっと速い選手がこれだけいる。一人ずつ勝っていくんだ」と、けしかけた。

中学時代に忘れられないレースがある。中3のときの全日本中学校選手権。1500mは2位、3000mでは3位だった。ただ1500mは、優勝を信じてガッツポーズをした隙に追い抜かれた。「僕はぶっちぎりでトップだったんです。『よし勝った』って思ってたら、直線でスパって抜かれた。最後の最後でなめてしまって……」。そう振り返ったときの何ともいえない表情からも、本当に苦い思い出であることが伝わった。中3になるころには、広島県内ではほぼすべての大会で優勝し、陸上で今後の進路が開けると確信したという。

悔しさは勝って晴らせばいい

広島には全国高校駅伝の常連である世羅高校がある。しかし徳本さんは当時、駅伝に興味がなく、800mや1500mの中距離で強くなりたいという思いが強かった。広島市立沼田高校の三浦学先生はそんな徳本さんに目をつけ、徳本さんが中3のときに高3だった教え子の北村智宏さんを連れて行って口説いた。800mが専門だった北村さんはインターハイで上位で入賞していて、徳本さんも「ものすごい強い人」と思っていた選手だった。結局、「お前は自由にさせてやるから」という言葉を受けて沼田高に進んだ。

三浦先生から「自由にさせるから」と誘いを受けたとき、「中学生の僕にはとても魅力的に見えた」と徳本さん(撮影・小野口健太)

本当に自由だったかというと、そうではなかった。「先生も先輩も厳しいし、ポケットに手を入れただけで蹴りが飛んできました。当時はそういう時代でしたから。でも突き詰めると礼儀作法というか、ある程度の縦社会の礼儀を分かってないと怒られる、という感じではありましたね」。高校選択に際して徳本さんが考えていた一つの条件が「丸刈りにしなくていい」ということだった。それは死守した。入学前に聞いていた話と違うなと思いながらも、刃向かいたい気持ちを競技へのエネルギーに変えた。「えらそうに言ってるけど走りじゃお前らに負けねーからな、みたいな。レースが終わったら『お疲れさまです』と上から目線で言う。そういう恨みの返し方をしてました」。大笑いで振り返った。

高校のときは中距離のほか、先生から言われれば3000mや5000mにも出場していた。ただ徳本さん自身、「400mの選手に800mを、800mの選手に1500mをやられたら俺は勝てないだろうな」という感覚が何となくあり、陸上を続けるのであれば距離を伸ばさないといけないと感じていたという。

地元広島の国体で輝いた為末さん

高校時代、400mで強烈な記録をたたき出した選手が広島にいた。それが徳本さんより1学年上で県立広島皆実高の為末大さんだった。徳本さんが高2のときに広島で開催された国体で、為末さんは少年男子Aで400mと400mハードル(H)に出場し、400mは45秒94で当時のU20日本新記録。400mHは49秒09で、現在もU20日本記録だ。徳本さんは同じ大会で1500mに出場し、3分50秒22で4位だった。種目がまったく違うにも関わらず、徳本さんは一気にスポットライトを浴びた為末さんに強い劣等感を抱いたという。

当時、広島から国体に出場する陸上選手は、徳本さんの沼田高と為末さんの広島皆実高の選手がほとんどだった。そのため両校の選手は週1ペースで遊ぶようになり、為末さんとは学校も競技も越えて親交が深かった。のちに為末さんは400mHの日本記録保持者(47秒89)となり、2001年と05年の世界陸上で400mHの銅メダルを獲得。オリンピックにも400mHで3度出場した。12年に引退してからは義足開発ベンチャー「Xiborg」に参画するなど、スポーツをテーマに幅広い活動をしている。そんな為末さんに、徳本さんは高校時代から強くひかれていたと振り返る。

「なんか一つ自分の好きなことになると視点が違うというか。『なんでそういう物事の考え方ができるんだろう』と、高校のときから思ってました。そういう人と違う発想を感じとることが僕は好きだったんです。為末さんは『みんなこうじゃないといけない』というような同調圧力とは無縁でした。でも高校時代の為末さんは陸上と遊びに一生懸命で、『ほんとバカだな』って思ってたんですけど(笑)」

為末さんは2001年のエドモントン世界陸上400mH決勝で47秒89の日本記録をたたき出し、銅メダルを獲得した(撮影・樫山晃生)

徳本さんは中国高校駅伝や全国都道府県対抗駅伝にも出ていたが、箱根駅伝にあこがれはなく、関東の大学に進むことを強く希望していたわけではなかった。そのまま実業団に進む道もあったが、陸上で食べていけなくなったときを考えると、大学は出ておいた方がいいだろうと思っていたという。複数の大学に声をかけてもらっていたため、父の知り合いだった塾の先生にも相談したところ「東京六大学だし、その中だったら法政だろう」とアドバイスをもらい、法政大に定めた。そこに為末さんがいたことも理由の一つだった。

法政大の陸上部の寮に入った日のことを、徳本さんはよく覚えている。割り振られた部屋の扉には、ある写真のコピーが貼られていた。ガッツポーズの隙に抜かされた、全中1500m決勝のゴールシーンだった。コピーには「遠足は帰るまでが遠足だよ。レースは最後までがレースだよ」とも書かれていたという。「多分、為末さんだと思うんですけど、『ふざけんなよって思いました。いまやったらいじめのノリじゃないですか」と徳本さんは笑いながら言った。それでも当時の徳本さんは落ち込むでも怒るでもなく、「なるほど、これが洗礼か」と受け入れた。

そうして始まった大学生活で、徳本さんはさらに大きな洗礼を浴びることになる。

法政のエースとして見た箱根駅伝の天国と地獄 駿河台大駅伝部・徳本一善監督2

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