法政のエースとして見た箱根駅伝の天国と地獄 駿河台大駅伝部・徳本一善監督2
10月26日の箱根駅伝予選会に出場する駿河台大は、法政大学時代に箱根駅伝のスターだった徳本一善(かずよし)監督(40)の下で力を蓄えてきました。連載「監督として生きる」の第9弾は徳本さんです。4回の連載の2回目は箱根駅伝で味わった天国と地獄についてです。
初めての箱根駅伝で新しい世界を知った
徳本さんが法政大に入学した1998年、チームは出雲駅伝と全日本大学駅伝には出場できず、箱根駅伝も予選会からとなった。その予選会では本戦に出場できるギリギリの6位に。1年生だった徳本さんも出たが、当時は1500mをメインにしてトラックで勝負したいと思っていた。箱根駅伝に対しても「4年生のときに出られたらいっか」という程度だったが、1年生のときからチャンスが巡ってきた。
最初の箱根駅伝で1区を任され、区間10位だった。1区には順天堂大の同じ1年生だった岩水嘉孝さん(現・資生堂ランニングクラブヘッドコーチ)も走り、8位で襷(たすき)リレー。そのレースを振り返り、徳本さんは「悔しさしかない」と言う。ただ、レース以外のところで、いままでにない衝撃を受けた。
「レースの記憶はあんまりないんです。でも、スタート地点の観客の多さなんて、トラックレースではまず見かけないような風景で。まったく注目度が違うんだなって思い知らされました。テレビでよく見かけるようなアナウンサーに話を聞かれるし。『なんだこの世界は! 』っていうぐらいに衝撃的で、『こんなコンテンツがあるんだ!』って思いましたね」
それは「有名になりたい」という思いではなく、「これでアスリートの価値を上げられる」という発見だった。実際、同じ広島出身で同じ法政大に進んだ1学年上の為末大さん(41)も、「お前さ、関東の大会(箱根駅伝)の方がオリンピック出たヤツよりも注目されるんだから、そりゃうらやましいよ」と、徳本さんにぼやくことがあったという。
将来、自分の脚で生きていくにはどうしたらいいのかを、徳本さんは常に頭に思い描いていた。好きな1500mを専門にしていても、スポンサーがついたり実業団に進めたりする可能性は決して高くはなかった。長く陸上を続けられる道はマラソンだろうという思いがあり、ゆくゆくは中距離から距離を伸ばす必要があると感じていた。まず大学から実業団へ続く道を開く方法を考えたとき、実業団も駅伝をやっている以上、箱根駅伝は最高の“プレゼン”だと思うようになっていった。駅伝よりもトラックに重きを置いていた徳本さんは、1年生で出た箱根駅伝を経て、一気に駅伝重視に変わった。
1区で爆走、日々の風景が変わった
1年生のときは800mや1500mがメインだったが、2年生では箱根駅伝を視野に入れ、「10000mを走れればハーフ(マラソン)は走れる」という考えから、10000mまで距離を伸ばした。そして2度目の箱根駅伝、1区のスタートから飛び出し、2位以下に1分以上も差をつけて襷リレーをするという離れ業を演じてみせた。「してやったりっていうか、いくのは自分で決めてたんで。自分が無理したんじゃなくて、自分のぺースに従って走っただけ。それがたまたまうまくはまっただけ。ほかの選手は牽制(けんせい)し合ってたんだと思います」。徳本さんは冷静に振り返った。
このとき、1区で勝ちきった喜びよりも「これで世界が開けるんじゃないか」という思いの方が強かったという。当時の徳本さんはサングラスに茶髪の風貌から「ビジュアル系ランナー」と呼ばれていた。実はサングラスを着用して走ることになったのは、徳本さんがメーカーに自分を売り込んだのがきっかけだった。サングラスのメーカーの担当者に「試しに箱根予選会でつけてみますか? 」と言われ、予選会ではレンタルのものを着けた。そして本番での活躍を機に、サングラスを提供してもらえるようになった。ちなみに1年生のときから茶髪だったが、2年生ではより明るくして走っていた。
日々の風景が変わった。電車に乗れば「法政のエースの子じゃない? 」という声が聞こえ、大学では見ず知らずの人に声をかけられたり、写真を撮られたりと一躍有名人になっていた。ただ徳本さん自身はこうした事態を「なるほどね」と受け止めていたという。
「こういうことが起きるんだ、って思いましたね。だから俺はどういうふうに行動しないといけないのかって考えました。ちょっと失敗したらすごく叩かれるし。俺自身は人に左右される人生ってすごく嫌なんですよ。『自分が納得できたらそれでよくね? 』っていう気持ちがあったんで、あんまり悩むということはなかったですね」
「箱根優勝」という期待を背負って
3年生のときは出雲駅伝で1区の区間賞、全日本大学駅伝で2区の区間賞、箱根駅伝ではエース区間の2区で区間2位だった。徳本さんの活躍もあり、法政大は往路3位、総合4位と、前回の10位から大躍進。最終学年になる前、徳本さんは長距離ブロックの主将になった。周りからは箱根駅伝優勝を期待する声が、より大きくなった。「お前がいればなんとかなる」「お前さえ頑張ってくれば優勝できる」と言われるたびに、「頑張ります」「任せてください」と応じていた。徳本さんの中でも「優勝しないとハッピーエンドにならない」という思いが強くなっていったという。しかし、ほかのメンバーたちとの意識レベルの差に悩まされた。
「法政のレギュラーである以上、箱根優勝の目的意識を持ってないといけない。これが当たり前。そういうマインドにせざるを得なかったんです。だけどメンバー全員がそう思ってるわけじゃなくて。『箱根で走れたら、それでいい』という選手もいた。そのギャップがとんでもないぐらいあって、それにすごく苦しんで、でも自分はキャプテンだからそうせざるを得ない。周りの選手がついてこなくなっても、『それでもやらないといけない』というプレッシャーがありましたね」
箱根駅伝の1週間前、徳本さんは右のアキレス腱に痛みを感じた。成田道彦監督だけには状況を話し、治療しながら最終調整に入った。成田監督に「最後の刺激で決めよう」と言われて走ったところ、2kmをいつもより速いタイムで走れてしまった。もちろん痛みはあった。「でもこの痛みを1時間我慢して走ればいい。チーム11番目の選手が走るより、一番強い自分が8割で走った方が、チームの成績はいいはず」と思い、徳本さんは成田監督に「いけます」とGOサインを出した。そんな様子を見て、成田監督も徳本さんの起用を決めた。
徳本さんは2区の5.4km地点で、右足に肉離れを発症。痛みを我慢すればいいと思っていたが、まったく脚が動かなくなった。そんな徳本さんに成田監督が手を差し伸べたが、その手を遠ざけ、前を追おうとした。最後は成田監督に抱えられ、涙の途中棄権となった。
そのレース後、徳本さんが開設していたブログに、サーバーがダウンするほどのアクセスが集中した。多くは誹謗(ひぼう)中傷だった。「ネットにこんなこと書かれてるよ」と見せてくる友人もいて、「俺が脚を引きずって歩いたら、こんな殺人犯みたいな書かれ方するんだ」と思うこともあったという。
箱根駅伝は、徳本さんに天国と地獄を知らしめた舞台だった。
「確かにいろんな期待があって苦しかったけど、でも、その期待が力になってたところもあったと思う。だから箱根に一生懸命向き合えた。表裏一体ですよね。でもバランス的には苦しい方が大きかったかな。ストレスがかかってくると、耐性が強くなるじゃないですか。許容量をオーバーしてネガティブに走る人もいるでしょうけど、でもそれをポジティブに変えられれば、打たれ強さになる。僕はその打たれ強さが半端なく上がった。そういう意味では、僕がいろんなことを知ることができる環境が、陸上にはあったと思いますね」
箱根駅伝で大学生としての競技を終えた徳本さんは2002年春、日清食品で競技を続ける道を選んだ。目標は04年のアテネオリンピック出場。いま振り返ると、その目標設定は「人生における最大の汚点」だったという。