駒澤大OB・風見尚さん 箱根駅伝4年連続補欠から100km世界記録保持者に!
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は100kmウルトラマラソンの世界最高記録保持者・風見尚さんのお話です。駒澤大学では箱根駅伝で4年連続でエントリーメンバーに入るも補欠にとどまり箱根路を走ることはできず。卒業後は愛三工業に進み、4年間の実業団生活を送りました。その後は社業に専念しながら市民ランナーとしてコツコツ走り続け、2018年には100kmウルトラマラソンで6時間09分14秒の世界最高記録を樹立しました。
いつも走って移動していた子ども時代
東京都出身の風見さん。子どもの頃は「自転車に乗れなくて、いつも走って移動していました。(当時)実家が自営業の居酒屋で両親とも共働き。自宅からお店まで3kmくらいの距離を走っていました」。毎日走って移動していたこともあってか、小学校のマラソン大会ではいつも上位に。
中学入学と同時に陸上部に入ります。中学時代は3年生の時に都道府県対抗駅伝の補欠に選ばれました。
高校は東京実業高校へ。1年生の時はジュニアオリンピックA 1500m 、国体少年B 3000mに出場(予選落ち)、5000m15分00秒まで伸ばすことができました。
2、3年生になってからは少し伸び悩んだそうで、インターハイ予選も南関東大会止まり。しかし箱根路への憧れはありました。「せっかくやるなら大学でもナンバーワンのチームでやりたい!」という思いからその年、箱根駅伝で総合優勝を飾った駒澤大学へ進みます。
毎日が全力だった学生時代
大学に入った時は「先輩も同級生も強くて、陸上雑誌に載っているようなメンバーばかりでした。次元が違いすぎて、逆にプレッシャーがなかったですね(笑)。1日1日全力を出すだけ! チャレンジャーとしてガムシャラでした!」。毎日が真剣勝負でした。
無我夢中で練習に打ち込み、1年目から箱根駅伝のエントリーメンバー16名に入ります。「自分でもびっくりでしたし、周りはもっとびっくりしていましたね(笑)」と振り返ります。
2年生、3年生と自己記録を伸ばしていけたものの「自分のポジションをどうやって上げていこうかと思っていましたが、突き抜けない感じがありました」と言います。ちょうどチームも箱根駅伝で3連覇、4連覇をしている年。風見さんはこの時も補欠でした。
ラストイヤーにかけるも、最後まで走れず
4年目、最後にかける思いで、当時箱根に向けてチーム内の重要な選考レースとなっていた11月の府中多摩川ハーフで4位(学内で3位)に入ります。いよいよメンバー入りに近づいたものの、その後の合宿やタイムトライアルで調子が上がらず。4年目の箱根駅伝では1区にエントリーされるも当日変更で外れることになりました。
「元々、外れるのは数日前に知らされていました。大八木弘明監督もメンバーを外れることになった理由をしっかり伝えてくださいました。それを受けて自分も納得できたし、自分もまだまだ力が足りないと思っていました。もちろん悔しかったですが、仕方がなかったと今でも思っています」
当時5連覇がかかっていたチーム(結果的にその年は総合5位)。大八木監督もラストイヤーにかけていた4年生を外すという決断は苦悩されていらっしゃったと思います。
「毎日が必死で心身ともに成長させてもらった、すごく大切な場所でした。全国で戦う厳しさを教えていただいた4年間でしたね」と風見さんは懐かしむように振り返りました。
余談ですが、風見さんは僕の1学年先輩で寮でも隣の部屋でした。風見さんといえばチームで一番の大食漢でした! 「両親が自営業で居酒屋ということもあってか、子どもの頃からたくさん食べていたんです!」。たくさん食べられる能力はエネルギー消費の激しいウルトラマラソンへの適正にもつながっていたのかもしれません。
「大八木監督の奥さんが栄養バランスの良い食事を作ってくださって、今でも感謝しています」とここでも感謝の言葉を口にしました。
ニューイヤー駅伝出場で感じた全国の壁
学生時代は目立った成績はなかったものの、陸上を続けたいと思っていた風見さん。大八木監督のご紹介もあって、卒業後は実業団・愛三工業で競技を続けることになりました。「いただいたチャンスを生かして恩返ししたい!」と挑んだ入社1年目のニューイヤー駅伝。
「初めて全国大会の駅伝に出られたのですが、出場しただけで終わりました。5区を走って後ろから数えた方が早い区間順位。チームに迷惑をかけてしまって……」。5区で区間34位とほろ苦いニューイヤー駅伝デビューとなりました。
その後4年間の競技生活を終えて、社業に専念することに。
「走ることは好きだったので趣味程度には走っていました」とフルタイムでを働きながらも市民ランナーとして走り続けていました。
闘病の母に元気を届けたい! 世界記録への道
陸上部を退部してから3年が過ぎて、趣味程度に走っていた頃のことでした。
「母が悪性リンパ腫という血液の癌になってしまって……。今まで風邪もひいたことがないような丈夫な母親だったのですが。母を喜ばせてあげたい、もちろん社業で頑張りたい、それだけではなくもう一回走ることで頑張りを伝えたい。母に元気を届けたい!」と再び本気で走り始めました。
「トラックやフルマラソンでは勝負できないけど、ウルトラマラソンなら良い成績をとれるのではないか」と距離を伸ばしていくことに。
2016年には初めて日本代表としてIAU50km世界選手権に出場し4位。「日本代表の代表像を描いていて、自分にプレッシャーをかけて挑んだ大会」だったそうです。
その後はさらに距離を伸ばして100kmに挑戦します。
そして、2018年のサロマ湖100kmウルトラマラソン100kmでは6時間09分14秒の世界最高記録を樹立。それまで砂田貴裕さんが持っていた記録を20年ぶりに、そして4分以上更新する快挙でした。
「4位に入れば、その年の世界選手権に出場できるという選考会でした。4番は絶対に獲ろうという目標でした。前半から集団でハイペース。後半も落ちずに走ることができ、びっくりするような記録が出ました!」。ちなみに100kmを6時間09分14秒というのは、1km平均3分41秒という驚異的なペースで走っていることになります!
迎えた世界選手権では「サロマから3カ月後ということもあり、ハイペースによるダメージがキツくて、思ったよりも疲労が抜けなかったですね。想定していた練習も積めなかったので、レース前は焦りもありました」。本番では6位と力を出し切ることができませんでした。
翌年、南アフリカで開催されたコムラッズマラソン(86.83km)で3位に入ります。コムラッズマラソンは歴史があり、2万人が参加する世界最大規模のウルトラマラソンです。アジア人としては初の表彰台でした!
フルマラソンのタイムも年々更新。今年の東京マラソンでは2時間13分13秒で自己ベストを更新しました。フルタイムで仕事をしながら37歳でもさらに記録を伸ばし続けています。
恩師・大八木監督から見た風見さん
風見さんの卒業後の活躍について駒大の恩師・大八木監督にもお話をうかがいました。
「学生時代はいつも補欠で悔しい思いをしていたと思います。実業団ではニューイヤーにも出て頑張ってくれたし、引退してからも1人でコツコツやれるのが成果となっているのかな。OBとして、メンバーになれなくても諦めずに挑戦していたら、卒業してからも成功できるということを後輩たちに教えてくれたのはありがたいと思います。やはり、陸上が好きというのが伝わってくるし、走れる限りこれからも頑張ってくれればと思います」。教え子想いな大八木監督の優しさが伝わってきました。
今も走り続けるモチベーション
最後に、風見さんに今も走り続けるモチベーションについてうかがいました。
「元々は母の病気がきっかけで、もう一度頑張ろう、元気を届けようと思ったのがきっかけでした。昨年母は亡くなってしまったのですが、世界記録を出した時にはとても喜んでくれて、嬉しかったですね。今は自分の周りにいる人たちに喜んでもらえたらという気持ちでやっています」
「コツコツやれば見えてくる、諦めない精神」と話された風見さん。風見さんがこれからもご活躍される姿には周りの皆さん、そしてきっと天国のお母様も喜んでくださると思います。