学連選抜で4年連続箱根駅伝出場 ひらまつ病院・梶原有高選手、走り続ける思い
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は梶原有高選手(ひらまつ病院)のお話です。松蔭大学時代には関東学連選抜チームのメンバーとして、4年連続で箱根駅伝に出場。実業団・プレス工業では日本選手権5000m4位、ニューイヤー駅伝1区で大迫傑選手に次いで区間2位。ひらまつ病院でもニューイヤー駅伝に出場して1区で区間3位と好走した梶原選手にじっくりお話をうかがいました。
駅伝で全国を経験した中学、高校時代
陸上との出会いは中学に入学して陸上部に入ったのがきっかけ。しかし、燃えたぎる熱い思いではなく「なんとなく始めました(笑)」というものでした。
たまたま入学した中学校は陸上部が強かったこともあり、日々の練習についていくだけで力を伸ばしていき、3年生になる頃には3000mで8分55秒。神奈川県代表で都道府県駅伝にも選ばれました。「全国レベルの大会は初めてでした。全然通用しなくて全国のレベルの高さに驚きました」と話す梶原選手。中学生区間のエースが集まる2区で47チーム中区間17位と、決して通用していないわけではないと思いますが、それよりも梶原選手にとっては全国のレベルの高さが一番印象的だったようです。
高校は静岡県の藤枝明誠高校へ。2、3年生のときに全国高校駅伝(都大路)に出場しました。
2年生で出場した初めての都大路は「大舞台の雰囲気にのまれてしまいました」と緊張もあったそうです。3年生のときはアンカーの7区。うまくコンディションを整えることができず、区間33位という結果に。
高校3年間は「良いときは走れましたが、大舞台で力を発揮できなかった3年間でしたね。当時はメンタルが弱かったかもしれないです」と振り返られました。
紆余曲折を経て、松蔭大学に入学
高校卒業後は関東のとある大学に入るも、環境が合わず2カ月で退部。大学もやめました。その後はコンビニとファミレスでアルバイトをしながら市民ランナー生活をしていた梶原選手。
ある日、自宅近くの公園で走っていたところ「当時、松蔭大学でマネージャーをしていた瀧川(大地)さん(現・東海大学陸上競技部中長距離駅伝コーチ)に声をかけられたんです」。後日正式に連絡があり、最初は迷ったそうですが熱心に誘われて、松蔭大入学を決意します。
「松蔭大学に入る前は朝から夕方までアルバイトだったので、大学の授業の方が体への負担も少なかったですね(笑)」と新しい環境にもすんなり順応しました。
当時、松蔭大学をご指導されていた近藤重勝監督(現・上武大学駅伝部監督)のご指導のもと、メキメキと力をつけられていきました。
初の箱根駅伝では川内優輝選手と襷リレー
1年目の箱根駅伝予選会では個人48位。チームとしては本戦出場はなりませんでしたが、関東学連選抜チームのメンバー入りを果たしました。現在は関東学生連合と名称が変わり、箱根出走も1度までですが、当時の関東学連選抜は4回まで出場可能でした。
「以前の大学をやめてフリーターになったとき、もう箱根に縁がないと思っていたんです。それが学連選抜に選ばれて、箱根を走れると思うとワクワクしましたね!」。迎えた箱根本番では復路の7区を任されました。
6区を走ったのは当時・学習院大学4年の川内優輝選手(現・あいおいニッセイ同和損保)。「川内優輝さんが凄い形相で中継所に突っ込んできて、大声で『いけー!』と襷(たすき)を渡されました! 緊張はしていましたが、それよりも楽しみの方が大きくて、流れに乗って走ったらうまく走れました」と初めての箱根路で区間5位と好走します。
余談ですが、学連選抜のご縁もあって川内選手とは卒業後もトレーニングをご一緒されることもあるそうです。
4年連続で関東学連選抜入り
2年目の箱根駅伝予選会では個人35位。2度目の関東学連選抜入りを果たします。しかし、2年目は7区区間20位という結果に。「直前もあまり調子が上がらず、ブレーキをして申し訳なかったです」。自チームでの出場ではなく、選抜チームということもあり、コンディション作りの難しさを感じられたそうです。
3年目の予選会では個人21位とさらに順位を上げてきましたが、またしてもチームは本戦に出られず、3度目の関東学連選抜に選出されます。箱根駅伝では花の2区を任されることに。「急遽、2区候補だった選手が故障して、走ることになりました」
この年はかなりハイレベルな争い。東海大の村澤明伸選手が1時間06分台。1時間07分台、8分台も続出。梶原選手も1時間08分50秒という好タイムで走りながらも区間順位では12位という結果でした。初めて花の2区を走られて、「ラスト3kmは腕がしびれるほどキツかったですね」というコースのタフさも話されました。
4年目のシーズンは、関東インカレ(2部)10000m5位、ハーフマラソン4位と2種目で入賞。日本インカレの5000mで入賞はならなかったものの10位。10000m28分52秒55をマークして、さらに実力も高めてきました。
迎えた4年生の箱根駅伝予選会では個人20位と4年間で最高順位も、チームとしては本戦出場はならず、4度目の学連選抜入りを果たします。最後の箱根駅伝は3区。「前半の下りでガンガン行きすぎてオーバーペースとなってしまい後半失速してしまいました」。区間11位と悔しさの残る結果に終わりました。
「箱根で失敗したときもありましたが、箱根に4回出られただけでも良い4年間でした」と松蔭大学での4年間を振り返られました。
実業団でスピード強化
大学4年の時にトラックのタイムも伸びたこともあってか「まだまだ伸びていく、実業団でもやっていきたい」という気持ちもあり、卒業後は実業団・プレス工業で競技を続けました。大学では箱根駅伝に向けて距離中心の練習でしたが、実業団ではスピードを重視した練習になり、トラックのタイムも伸びていきました。
2013年の日本選手権では5000mで7位入賞。翌年は再び5000mで4位入賞を果たしました。また記録の方も5000mで13分36秒79と、神奈川県記録を更新(現在も記録保持者)しました。「5000mは大学まで苦手な方だったのですが、実業団でスピード練習をして結果につながっていきました」と課題を克服し、むしろ勝負できる種目となっていきました。
5000mで鍛えたスピードを生かして、元旦のニューイヤー駅伝ではエース区間である4区(22.0km)を2年連続担当しました。
大迫傑選手に次いで区間2位
2015年のニューイヤー駅伝では1区を担当。「集中しきっていました。ゾーンに入っていましたね。ラスト1kmまで余裕がありました」と集団の中でのペース変動にもキッチリ対応。当時・日清食品グループだった大迫傑選手(現・Nike)がラスト1kmを切ったところでスパート。さすがに大迫選手のスパートには対応できなかったものの、大迫選手に次ぐ区間2位の好走でした!
「区間5番前後かなと思っていましたが、ここまで走れると思わなかったです。大迫選手は強かったですね。スピードの切り替えが段違いでした。一気にギアが変わって、レベルが違うなと感じました」
のちにマラソン日本最高記録を更新する大迫傑選手のスピードの切り替えを肌で感じたそうです。
駅伝でも結果を残しましたが、その後、プレス工業を退社。市民ランナーとして走り続けることになりました。
ひらまつ病院に所属、再び1区で好走
2017年からはご縁もあって、ひらまつ病院の所属となりました。その年の九州実業団駅伝でアンカー7区で区間3位の走りで、見事チームとして念願のニューイヤー駅伝初出場を決めました。
「チームメートにも関係者にも喜んでいただけて、ホッとしましたね。病院の方もチームメートも良い方ばかりであったかい雰囲気ですし、絶対ひらまつをニューイヤーに連れていきたいという気持ちで走りました!」と振り返られました。
迎えた2018年元旦のニューイヤー駅伝は、2015年にも好走した相性の良い1区。「単独走よりは1区の方が自分の強みを生かせますね。走っている時の駆け引きも好きです」
「1区は集団になることが多いので、いかに力をためるか、後半に出し切れるかが大事です。位置取りは後ろの方が好きですね。状況を見て、後半になって徐々に上がっていきラストは前の方に出ていきます」と梶原選手の1区の走り方も教えていただきました。
今後の目標
コロナ禍で試合の中止や延期が続きましたが、市民レースである7月のM×Kディスタンスでは3000mを8分15秒31で走破。2週間後の東京選手権5000mではスローペースで進み、1〜5位までが激しいラスト勝負までもつれこみ、梶原選手は14分21秒80で5位となりました。
今後の目標は「現役でこれから何年できるかわかりませんが、ひらまつ病院で活躍したいですし、ひらまつ病院を全国に知っていただきたいです!」
活躍すると「とても喜んでくださいます」という職場の皆さんへの恩返しもモチベーションとなっているそうです。梶原選手のさらなる活躍に注目ですね!