陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2021

国士館大・杉本日向、箱根駅伝に捧げた4年間 「11番」は悔しくも誇りをもって

箱根駅伝予選会で杉本は2年連続チーム内11番目だった(写真提供・あやか)

「11番」。国士舘大学の杉本日向(4年、秋田中央)を語るには欠かせない数字である。杉本は箱根駅伝予選会で2年連続チーム内11番、昨年度の箱根駅伝は当日変更で出走できず、今年度の箱根駅伝はゼッケンが11番と、惜しくもあと一歩及ばず涙をのんだ選手だ。「箱根駅伝を走りたい」という夢を叶(かな)えるために一生懸命に駆け抜けた4years.の軌跡を振り返る。

大学で力をつけて箱根駅伝を走りたい

杉本は友人に誘われたのがきっかけで、小学5年生から中学3年生までバスケをしていた。陸上は中学3年生の時に出場した駅伝大会がきっかけで、高校から始めた。父が陸上経験者で、小さい頃から一緒に走ることが好きだったことと、テレビで見た箱根駅伝が憧(あこが)れから目標へと変化したことで、陸上に打ち込むと決めた。だが高校時代の5000mのベストタイムは15分18秒。スポーツ推薦の指標となる14分台に届かなかった。

AO入試で国士舘大に合格し、迷うことなく長距離ブロックに入部した(後列の右端が杉本、写真は本人提供)

大学で箱根駅伝で走るため、「自分をしっかりと育ててくれる」ことを軸に各大学の監督を真剣に調べた。調べていく中で、高校時代に15分台でも実業団に進み、マラソンでは2時間11分台のタイムを残している監督を見つけた。国士舘大学の添田正美駅伝監督だ。杉本は「この監督なら自分を育ててくれる。ここしかない!」と、AO入試で入学を決めた。スポーツ推薦や標準タイムを切っていないと駅伝部に入部すらできないところもある中、杉本の熱い思いが届き、入部が決まった。

添田監督に対して杉本は、「普段は穏やかで優しい性格で、能力関係なく指導してくれる最高の監督」と言う。監督の期待に応えるためにも、大学4年間、本気で取り組むと決意した。

杉本(左端)は添田監督(右端)の期待に応えたいと思い、日々の練習も全力で取り組んだ(写真は本人提供)

2年生でAチームに昇格、3年生での初の予選会で11番

国士館大は部員約70人、箱根駅伝常連校とも言われるチームだ。多くがスポーツ推薦で入部する中、ルーキーイヤーは14分台突破を目標にして取り組んだ。最初は練習についていくだけで精一杯だった。だが、誰よりも距離を踏むことを心がけた。「同期の中では一番距離を走った」というように、継続的に努力を積み重ねた。結果、11月に14分台の壁を突破。その勢いのまま、2年生になってからはAチームに昇格し、着実に力をつけていった。

3年生では初の公式戦となる箱根駅伝予選会に出場した。選考レースでも調子が良く、予選会でも上位でのゴールが期待された。しかし「緊張と不安で押しつぶされてしまった」と本来の実力を発揮できず、チーム内11番でゴールした。チームは本戦に出場したが、杉本は当日変更で出走できなかった。

最後の予選会も11番、父からの言葉に涙

ラストイヤーは副将に就任した。チームの目標である「箱根駅伝でシード権を獲得」を目指し、魂を込めてチーム改革に取り組んだ。主将の加藤直人(4年、藤沢翔陵)は背中で引っ張るタイプ。だからこそ杉本は、部のルールや練習の取り組み方などを変えていくことに励んだ。

ラストイヤーは副将としてチームを引っ張った(手前右が杉本、写真は本人提供)

人一倍練習に取り組み、時にはチームのために厳しい言葉や意見も伝えた。だが求める理想が高く、衝突も起こったという。杉本は「目標へみんなを同じ方向に向かせるのは大変だった」と苦労の日々だった。昨年度はコロナ禍で一時、チーム練習ができなくなり、帰省する選手もいたため、バラバラで練習を行っていた。杉本はチームをひとつにするために積極的にコミュニケーションをとり、チームの雰囲気を良くしていった。

その努力は杉本自身の成績にも結び付いた。きっかけは、新たに就任した小川博之助監督との出会いだ。小川助監督はサンベルクスで監督を務めるなど、多くの有名選手を育て上げた指導者。練習メニューに体幹トレーニングなど、走り以外での選手への強化を図った。すると10000mのタイムが30分21秒から29分38秒と、約50秒近く縮まった。

5000mと10000mの両種目で自己ベストをマークし、調子は上向きで箱根駅伝予選会に臨んだ。だが2年連続でチーム内11番目。最後の年も実力を発揮できなかったが、チームは本戦への出場を決めた。杉本は「チームに貢献できなくて悔しかった。でも、箱根で選ばれるために気持ちを切り替えて練習に取り組んだ」と前向きな気持ちで箱根駅伝を目指し、最後の最後までアピールを続けた。

12月31日、箱根駅伝の出走メンバーが発表された。杉本は「心臓の激しい鼓動が止まらないほど、緊張した」と振り返る。次々と選手が呼ばれていく。そして発表が終わった。杉本の名前は呼ばれなかった。

中学3年生での駅伝大会で力走する杉本(緑)と応援する父親(手前右)(写真は本人提供)

その日の夜、父に電話した。父は「箱根駅伝に出る目標に向かって4年間やり切れたのはいい経験だったと思うよ」と言葉をかけてくれた。小さい頃から一緒に走ってくれ、練習や試合結果に対してアドバイスもくれ、試合には応援にも来てくれた。自分を支え続けてくれた父の思いに触れ、大粒の涙がこぼれた。杉本の努力を見てきたからこそ心に響く言葉だった。次の日から気持ちを切り替え、副将として最後のチームのサポートに徹することを決意した。

アンカーを出迎え、自然と笑顔になれた

迎えた箱根駅伝。杉本はアンカーの出迎えを任された。綱島辰弥(2年、湘南学院)が18位でゴール。綱島を抱え込んだ時、自然と笑顔になれた。杉本は「最後まで諦めないでやり切ることができた。後悔はない」と、最後まで全力で駆け抜けたからこその笑顔だった。

全てを出し切ったアンカーの綱島を笑顔で迎え入れた(撮影・藤井みさ)

添田監督に対し、杉本は「15分台だった僕をしっかりと育ててくださったこと、本当に国士館にきて良かったです。監督のおかげです」と口にした。また、「本当は箱根駅伝を走って、自分の成長した姿を見せたかったです。でも、箱根駅伝を走れなかったとしても、4年間の頑張りでここまで成長できたと示すことはできたと思うので良かったです」と支えてくれた人々への感謝の気持ちも忘れていない。

高校では実績を残せなかったが、大学での努力で箱根駅伝出走まであと一歩のところまでたどり着けた。「11番」の選手だとしても、努力した証は杉本の人生においてかけがえのない財産になるだろう。

箱根駅伝を目指し、杉本は4年間、最後の最後まで必死に取り組んだ(写真提供・saya)

卒業後は一般企業に就職し、市民ランナーとして走り続ける。陸上と箱根駅伝につぎ込んだエネルギー。今後の人生で力に変えていってほしい。

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