陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2021

「早稲田で箱根駅伝を走る」夢は叶わなくても 黒田賢、やりきれた4年間

昨年12月31日の「漢祭り2020」が現役ラストランとなり、力走する黒田(写真提供:早稲田スポーツ新聞会)

大学4年間スポーツに打ち込んでも、レギュラーになれるのは一握りの選手だ。だが、懸命に競技に向き合った時間は、素晴らしい財産を残してくれる。早稲田大学競走部で4年間を過ごした黒田賢(まさし、早稲田実業)もそんな選手の1人だ。どんな思いで競技を続けていたのか、そして引退した今何を思うのか、じっくりと聞いてみた。

「早稲田大学で箱根駅伝を走りたい」

山形県米沢市に生まれ、小学校3年生のときに米沢ジュニア陸上クラブで陸上を始めた黒田。小学校のマラソン大会で優勝したのをきっかけに、「本気で陸上に取り組みたい」と思うようになる。そしてテレビで見た箱根駅伝で、早稲田大学のエンジのユニフォームにあこがれ「早稲田大学で箱根駅伝を走りたい!」と強烈に思った。それからずっと黒田少年は「どうやったら早稲田で箱根駅伝を走れるか」と考えながら走っていた。

2011年の早稲田大学箱根駅伝総合優勝は、黒田少年の心に強い印象を残した(代表撮影)

中学校に上がっても変わらず米沢ジュニアで競技に取り組んでいた黒田。ジュニアオリンピック3000mにも出場するなど県内でも名を馳せ、どの高校に進むべきか進路に悩んでいた。中学3年の夏、大迫傑(ナイキ)が中学時代にトレーニングをしていた清新JACとの合同合宿があった。清新JACを主催する畠中康生さんは山形県の出身。「どの高校に行くの?」と聞かれ、最終的に早稲田大学に行きたいと話すと、系属校の早稲田実業学校に入って早稲田で箱根を目指すという方法もあるよ、と教えてくれた。

「系列校、という選択肢はまったく考えていませんでした。でも調べたら、早実の陸上部の指導をされているのは2011年の箱根優勝メンバーの北爪貴志さんということもわかって。チャンスだから飛び込もう! と思って、猛勉強してなんとか合格しました」

個性豊かなチームをまとめ、都大路まであと一歩

そうして上京して早稲田実業に入学。同級生には、今年の箱根で7区を走った宍倉健浩がいた。北爪さんから言われたのは、「二兎を追わぬものは一兎をも得ず」。陸上も勉強も、本気で学生生活をがんばれよ、というメッセージだった。

入部して黒田が思ったのは、考えていた以上に学生自治でチームが運営されていたことだ。陸上部には黒田や宍倉のように「早稲田大学で箱根駅伝を走りたい」と本気で陸上に取り組む者、趣味程度に運動を楽しみたい者など、さまざまな部員が集まっていた。「いろんなカラーを一つにまとめたチームで、目標を一つにするために何度もミーティングをしました。全員が同意した一つの目標を掲げようとなって、その中で決めたのが、都大路を目指そうということです」

2011年の優勝メンバーだった、8区を走った北爪貴志さん。黒田の高校の恩師だ(代表撮影)

1つ上の学年には三上多聞、齋藤雅英と力のある選手がいた。黒田が2年生の時、都大路を狙うなら今年だ、と定めてチーム一丸となって挑んだ。しかし國學院久我山が1区からトップを守り続け、1位とは1分17秒差での2位だった。「チームでは出し切れましたが、久我山は強かったです」と笑って思い返す。

努力すればしただけ結果が出る。陸上の楽しさを存分に味わっていた黒田だが、高3になってから突然局所性ジストニア、通称「ぬけぬけ病」を発症してしまう。走ろうとしても走れない。大学で陸上を続けるかも迷った。だが、競技力としての限界が来ているとは思わなかった。そこで黒田が選んだのは、スポーツ科学部の鳥居俊先生の「運動器スポーツ医学研究室」に入って、自分で治療法を見つけていく、という方法だ。「早稲田で箱根駅伝を走りたい」という夢のために、もちろん競走部にも入部した。

実力主義の競走部、思うように走れずもがき苦しむ

早稲田大学競走部は、完全なる実力主義だった。1年生のうちは特に、寮の掃除、食事の用意などの当番もあり、加えて朝練もある。4時台に起きて、当番と練習をして、その後授業。授業から戻り練習、当番。寝るのは22時。体力的にも精神的にもキツかった。そして関東インカレや駅伝など、大会のメンバーに入れると、当番の仕事は免除。逆に言うとメンバーに入れなければ、ずっと仕事を続けないといけないことになる。「チームに走りで貢献できないから、その分仕事をやらなきゃいけないとは思ってました。自分もメンバーに入らなければ、というハングリー精神がかきたてられました」

だが相変わらずぬけぬけ病の症状が改善されない黒田は、「なんとかレースにだけは合わせる」という状態でやってきていた。例年、マネージャーは学年から1、2名出すことになっていて、その選考レースが2年生の7月7日前後の記録会、通称「七夕の陣」。レース結果の下位の者がマネージャーになるルールだ。黒田はまだ競技を諦めたくないという気持ちから、なんとか練習を続けて走り、最下位にはならなかったが、上位の選手たちのレベルは遠かった。何度も「1回でいいから開放されたい」、「1カ月でいいから休みたい」と思ったという。しかし、「競走部をやめる」という選択肢は不思議と浮かんでこなかった。

仮説と実践をつみかさね、ついにぬけぬけ病を克服

局所性ジストニアは、脚ではなく脳の病気だ。黒田は大学に入ってから、自らの病気と取り組み続けた。長距離選手のほか、ピアニスト、ギタリスト、書道家などにも同様の症状がでている人がいる。陸上では長距離選手には多く見られるが、短距離選手にはいない。野球選手は先発投手にはいるが、クローザーにはほとんどいない。ゴルフ、弓道には多いが、ウェイトリフティングや相撲にはこの症状の人はいない。ここから導き出したのは、体を動かす際の「出力」の問題だ。10割で出力したときには症状は見られず、6~7割の時は症状が出る、ということに黒田は気づいた。研究・調査を応用し、高強度のウェイトトレーニングに取り組むなど、フルパワーの出力を脳に覚えさせることで左右のバランスを整えるようにしていった。

努力したいと思ってもできない。もどかしさの中競技を続けていた(写真提供:misatoさん)

体作りなど地道な取り組みを続けていった結果、黒田はついに大学3年の夏合宿中に「走れる」という感覚を取り戻した。「自分の足で地面を踏みしめる感覚が、単純に嬉しかったです。それまでは努力しようとしてもできなかった。努力できる嬉しさを感じました」と笑顔で話す。Aチームでの練習にも合流できるようになり、やっと走れる楽しさを味わえるようになった。

しかし、下の学年には中谷雄飛(佐久長聖)や太田直希(浜松日体)、千明龍之佑(東農大二)など実力者が揃い、1年次からレギュラーとして活躍していた。彼らと一緒に走っていると、接地のポイントや体の力感が明らかに自分とは異なっていることに気づいた。「本能的に、この先競技を続ける人との違いを感じました」

大学で競技を引退すると決め、3年生から就活をしていたが、「箱根駅伝を走る」という夢を諦めたわけではなかった。「自分みたいな選手は何ができるのかな? とずっと考えていました。動きづくりやドリルなど、自分でメニューを考えて真剣に取り組んだりとか。結果が出ない中でもしっかり取り組んでいるという部分は、後輩たちにも見せ続けるようにしていました」

思いがけず見つけた「アナウンス」という楽しさ

競技に悩む中で見つけた一つの転機があった。早稲田大学競走部の部員は、関東インカレや全日本インカレでアナウンスをする機会がある。大学2年の全日本インカレの際、たまたま人が足りず、「やってみろよ」と言われて初めて競技アナウンスをしてみると、思いのほか楽しさを感じられた。

全日本インカレでアナウンスする黒田。陸上競技の違う面からの面白さに気づけた(写真は本人提供)

「それまで長距離のことしかやってこなかったんですが、インカレはいろんな競技があるので、短距離、跳躍、投擲……初めて『競技者』を離れて競技を見たときに、純粋な『競技の面白さ』に気づいたんです。そして自分のアナウンスに反応して、場内が盛り上がってくれたりするのがすごく楽しいとも感じました」。走りではまったく貢献できていない、という気持ちから黒田の自己肯定感は低くなっていた。しかしアナウンスとして関東学連の仕事を担当し、少しでも貢献できているという事実は黒田を助けてくれた。そこから、アナウンサーを目指してみよう、という気持ちが芽生えてきた。

競技では不甲斐なくとも、アナウンスで貢献できた

競技がうまくいかない中で見つけた、アナウンスという「生きがい」。それが特に生かされたのが昨年の10月、出雲駅伝が中止となり、その代替試合という形で開催された「トラックゲームズ in TOKOROZAWA」の時だ。早稲田大学、明治大学、東洋大学、創価大学の4大学対校戦。無観客のため、YouTube配信を行うことになり、配信のアナウンスを競走部の磯繁雄監督からも頼まれた。

目指していた3大駅伝の1つがなくなったことに悲しみはあったが、せっかく対校戦をやるのなら、それ相応の盛り上げ方をしたい! 黒田の心に火がついた。「大学駅伝への恩返しだと思いました。(例年、出雲駅伝を放送している)フジテレビには負けないぞ! と思って、前日まで出場する選手のことを調べたりしていました」とプロのアナウンサー顔負けの準備をした。

大学3年の関東インカレでの黒田(右から4人目の赤ポロシャツ)。この時もアナウンスを担当した(写真提供:misatoさん)

一方で、対校戦の直前には早稲田大学競技会があり、黒田は自身の競技について「背水の陣」だと思って臨んだ。夏からしっかりと体をつくり、調子もよかった。チャンスは少ないけれどここで結果を出したい。高校2年生のときに出した5000mの自己ベスト、14分50秒92の更新を狙っていたが、結果は14分56秒56と及ばなかった。「そこから配信まで30分しかなくて。落ち込んでたんですが切り替えてやるしかない、と思って、45分間ほとんど一人でしゃべり続けました」

配信は多くの陸上ファンが見た。同期からも「マジ最高だった!」と声をかけられ、磯監督からも「YouTube配信が形になったのはお前のおかげだ」と労われた。「それで、少しは競走部に貢献できてるのかな……と思えました。実力で不甲斐ない反面、アナウンスという仕事に助けられてた感じがあります」と思い返す。

競走部の「広報担当」として

もう一つ、黒田が4年生のときに力を入れて取り組んでいたのが、競走部のTwitterアカウントの運用だ。早稲田大学競走部には、公式アカウントとは別に、毎年「ゆる系」ともいえるアカウント「WILD組」が活動している。黒田たちの1つ上の代が運営していたのは「カラアゲ師匠」。その「中の人」だった尼子風斗(鎌倉学園)と仲が良かったこともあり、黒田が新アカウント「焼きジャケ侍」を担当することになった。いわば部の「広報担当」でもある。

2020年度は新型コロナウイルスの影響でほとんどの試合が無観客となったこともあり、大会の様子、選手が走っている姿やレース後のコメントなども積極的に発信した。アップすると反応がある。その反応を見ながら、フォロワーが求めるコンテンツを工夫していった。1月3日には目標だった「フォロワー3000人」も達成できた。

部員の素顔が伝わる、楽しいオフショットも多数配信した(写真は本人提供)

「走っている写真や動画は毎年上げてるんですが、それよりもオフショットのほうが反応がよくて(笑)。そういうのが求められてるんだな、っていうのは初めて気づきました」。箱根駅伝のときにも、カウントダウン企画で面白い写真を出したり、部員のいろいろな面を知ってもらう取り組みをした。「一番意外だったのは、どの選手に誰が給水するか、ということをみんな知りたいんだなということです」。フォロワーの反応を見て、復路では給水一覧の表を作ってアップするなど、会話をしながらファンを増やしていった。

夢は叶わなかった、でも

結局黒田は4年目も箱根駅伝のメンバーに入れなかった。小学生のときから考え続け、早稲田実業に入ってからは「7年計画で」と思っていた「早稲田大学で箱根駅伝を走りたい」という夢は叶わなかった。だが黒田は「悔しさはあるけど、できることは全部やったな! と、心から言えます」とすがすがしい表情を見せた。そしてこう続ける。「12月10日のチームエントリーに入れなくて、走れないとわかって、『夢が叶わない』と思った状態で箱根駅伝まですごさないといけない1カ月だったんですけど、そこで諦めて腐ってしまう人もいるんです。それだけはやりたくなかった。やりきる強さを見せられたら、と思っていました。それが7年間の証明だと思ってます。競走部に残せる最大限のことはできたのかな、と思います」

その証拠に、現役ラストレースとなった12月31日の早稲田大学競技会、通称「漢祭り2020」で黒田は攻めた。これは箱根駅伝のメンバーに入れなかった者たちが走るレース。1位になった者には「漢」の称号が与えられる。黒田ももちろん「漢」を獲るために走った。10000mに出場し、5000mの通過は14分48秒と自己ベストをしのぐペースだった。後半失速して11位となり、「漢」を獲ることはできなかったが、駒野亮太コーチからは「やりきったっしょ!」と声をかけられた。最後の最後まで、全力を出し切れた。

悔しさはあれど、後悔はない。4年間やりきった黒田は新しい一歩を踏み出す(写真は本人提供)

「ただ終わってみて」、と少し考えながら言う。「(箱根を)走れなかった以上は、7年間東京で過ごしたことが正しかったのかといったら、まだはっきり『はい』とは言えないです。これから『箱根駅伝の11区』が始まるので、ここからしっかり自分なりに頑張って、7年間に意味を与えるものにしていきたいです」

100%やりきれたら後悔はない

いま、レギュラーになれない選手に声をかけるとしたら?と聞いてみた。「まずはやっぱり箱根路を目指して、自分ができることはやりきってほしいです。できることを最後まで100%やりきれたら、後悔はないし、箱根を走る以上の価値はあるかもしれない。どんな状況下でもできることってあると思うので、とにかく模索して実行して、全力を尽くしてほしいです」

4月からはアナウンサーとして就職が決まっている黒田。もう走らないですか?と聞くと「引退したら走らないだろうって思ってたのに、数日前も走っちゃいました」と笑う。体に刻み込まれたリズムを感じながら、走ることが心地よい。これからは自分のリズムで黒田は「箱根11区」へとチャレンジしていく。

in Additionあわせて読みたい