陸上・駅伝

国士舘大・小川博之新監督「エースを作る」、箱根駅伝予選会はどんな展開でも勝つ

今年1月の箱根駅伝で国士舘大は15位だった(代表撮影)

2020年3月まで実業団・サンベルクスで監督を務め、同年4月に国士舘大学の助監督、そして今年4月には監督に就任した小川博之さん(44)。国士舘大は6月19日にあった全日本大学駅伝関東地区選考会で10位と、6大会ぶりの伊勢路には届かなかった。10月15日にある箱根駅伝予選会に向け、小川監督に今の思いを聞いた。

前半シーズンを終えての印象は例年と同じ

上位7校までが本戦に臨む全日本選考会で、国士舘大は4時間00分32秒79、7位に入った日本大学との差は1分28秒39だった。10000mで1人平均11秒足りなかったことになる。個人でも10000mの28分台はピーター・カマウ(2年)1人だけだった。だが7月には綱島辰弥(4年、湘南学院)と中島宏太(2年、城西大城西)が5000mで13分50秒台の自己新をマーク。今後を期待させる走りを見せた1年生も複数現れ、明るい材料も見られ始めた。

――全日本選考会をどう評価されていますか。

小川:箱根駅伝を走った5人の4年生が抜け、チームが代わっている最中です。留学生選手も監督も代わりました。目標は予選通過でしたが、チームも監督も経験、育成の年と位置づけています。ピーターも含めた8人中5人が、駅伝や選考会というプレッシャーのかかる試合は初出場でした。これから作り上げていくチームの試しの場。3、4組が良くありませんでしたし、エースを作る課題も残ったままでしたが、経験を積むことはできました。

――箱根駅伝9区で区間6位だった綱島選手が、全日本選考会は1組で6着(29分50秒56)でした。

故障明けだった綱島は、全日本選考会を経てエースとしての自覚が出てきた(撮影・松永早弥香)

小川:1月から4月まで故障していて、四大学対校も関東インカレも出られませんでした。急ピッチで間に合わせましたが、最終組で走る準備ができなかったので1組で走ることにしたわけです。しかし目線が高くなって、エースとしての自覚も出てきました。7月の関東学生網走夏季記録挑戦会の5000mに遠征するチャンスを生かして、13分55秒76の自己新で走ってくれましたね。ここ何年か総合力で箱根駅伝に出場はできていますが、シード権を取るには留学生選手以外にエースを1枚、2枚作らないと勝負できません。

――夏前までの全体的な評価は?

小川:主力の出遅れもあって、客観的には昨年と比べると戦力が落ちていますが、前半を終えた印象は例年と大きく変わりません。かといっていいとは言えませんし、他大に勝てるとも言えません。ここからしっかり夏の練習に取り組んで、秋以降で10000mとハーフマラソンの記録につなげないといけません。

ケガや病気の多かった現役時代から得たもの

小川監督は国士舘大出身。在学中の4年間は箱根駅伝に一度も出られなかったが、個人では3年生での関東インカレ男子1部5000mで優勝し、ユニバーシアード10000mでは5位入賞を果たした。1年生の時には自身が頑張ることで(箱根駅伝予選会は個人3位)、2年生以降は言葉でも仲間を叱咤激励(しったげきれい)した。3年生の時には主将になったが、箱根駅伝予選会は直前の体調不良やケガの影響で3年生でも4年生でも個人12位。「箱根駅伝は小学生の頃からの夢。1回でも出たい」と、自身のレベルに適した練習よりもチームの練習に加わったが、予選会を通過することができなかった。

実業団は強豪の日清食品に入社。ニューイヤー駅伝の主要区間を任された年もあったが、入社前に左ひざを、1年目の終わりには喉(のど)の手術をしている。脚が抜けて力が入らない症状にも苦しめられ、6年目には結核にもかかった。環境を変えた方がいいと判断し、2007年にJAL AGSに移籍。10年から3年間在籍した八千代工業では選手を続けながら、母校の国士舘大でコーチもした。この頃は自己新は出せなくても安定した成績を残している。13年から女子実業団チームの三井住友海上でコーチ、17年から男子実業団のサンベルクスで監督を務めた。20年に助監督として国士舘大に戻り、今年、監督に昇格。44歳の若さだが、多くのポジションで経験を積んできた。

現役時代はケガ・病気との闘いでもあった(右が小川監督、写真提供・日清食品グループ)

――学生時代は小川監督だけが孤軍奮闘していた状況ですか。

小川:2学年上に添田さん(添田正美前監督、現コーチ)もいらして、一生懸命やっている選手も何人かいたのですが、チームとしてのまとまりはなくて、朝練も適当にやったりサボる選手が多かったりしていました。重要なのは自分がどこを目指しているか、という自覚だと思いました。同じ福島県出身で同学年の佐藤敦之君(当時早大、北京五輪マラソン代表、現中国電力ヘッドコーチ)が頑張っていて、自分も日本のトップを維持したい、世界で戦いたい、という気持ちを強く持っていました。環境も大きいのですが、それを言い訳にはしたらダメだと自分に言い聞かせていましたね。

――実業団では故障や病気で代表には届きませんでしたが、30歳を過ぎてニューイヤー駅伝5区で区間9位になるなど渋く活躍されました。そこから得たものは何でしたか。

小川:経験が一番生きているのは、やるところまでやって故障をしてしまったことです。痛みが出始めてやめるタイミングが分かってきました。妥協をしないように、苦しいのは我慢しないといけないのですが、痛いのは我慢したらいけないタイミングがある。1カ月間走れないかもしれないのだったらやめておく、という判断を勇気を持ってできるかどうか。これは選手本人にしか分からない部分ですが、自分の経験をもとに学生たちにも話しています。病気になって薬ばかり服用するようになって、それが内臓疲労として出て苦しんだ時期もありました。食事のことも含めて対処の仕方を、経験値として蓄積しました。故障や病気になるとメンタル的にも落ち込みますが、そこで絶対に諦めないことですね。がんを克服して世界的に活躍したスポーツ選手の本を読んで、気持ちのコントロールの仕方を学びました。

――長距離選手に多い座骨のケガ、脚に力が入らない“抜け病”も経験されたとか。

小川:04年くらいから、ひどくなった時期がありました。その時に上半身の動き、主に胸郭の動きが関連しているんじゃないかと思いついて、自分の体で色々と試してみました。こういう緩め方をすればいいかもしれない、意識の持ち方はこうするとうまくいく、と。短距離選手がやるような接地や動きが参考になって、動きづくりは丁寧にやっていましたし、選手を指導するようになってからも取り入れています。

夏合宿から箱根予選会、細かい部分で変更点も

小川監督は助監督として指導をしていたため、練習メニューや合宿地は大きく変更していないが、変更点もないわけではない。夏合宿をどのように進め、どんな変更点を織り交ぜていくのだろうか。そして箱根駅伝予選会をどう戦っていこうとしているのか。

――夏合宿の場所と、それぞれの場所での狙いを教えてください。

小川:8月前半の1次合宿が標高800~1000mの妙高高原(新潟)で、8月後半の2次が1000~1300mの菅平(長野)、9月頭の3次が1600mの御嶽(岐阜)、そして9月中旬の4次をもう一度妙高で行います。3次合宿までは徐々に標高を上げて、体への負荷も大きくしていきます。場所はすべて昨年までと同じで、日数はどれも1週間くらい。添田さんの頑張りで予選会は確実に通過できるようになっているので、メニューも大きく変えず、目的やこなし方をより細かく、分かりやすく伝えるようにしています。変えるのは4次合宿でも走り込みをすることです。その代わり、1次はスピードを入れず距離だけにしました。2次と3次はスピードも入れますが、それほど速くしませんし、一番の狙いは例年と同じ走り込みです。

この夏は4次合宿を経て、駅伝シーズンへと向かう(写真提供・国士舘大学陸上競技部)

――細かい部分で変更する点はありますか。

小川:夏合宿に限りませんがミーティングのやり方を少しずつ選手主体に変えています。大きなテーマは私から出しますが、複数のグループに分けて細かく話し合いができるようにしました。今日はこういう練習ができた、次はこうしたい、という日常的な話し合いもしますし、予選会の戦略を話し合って、夏の取り組み方の注意点も洗い出したりします。練習の狙いを明確にすれば、より集中して練習に取り組むことができますから。グループ別にしたのは、できるだけ多くの選手が発言できるようにすることも目的です。全体ミーティングだと発言できる選手の数が限られますから。各グループのリーダーに選手個々の状態を確認してもらって、私たちスタッフも共有できるようにしました。選手も自分が発言することで、必ず実行しようとモチベーションが上がります。

――予選会前にレースに出る予定はありますか。

小川:10月頭あたりで10000mを1本走る予定です。合宿が終わって疲れが抜けてきたタイミングで。でも調整はしません。あまりガンガン行ってもピークがずれるので、チーム状態にもよりますが、29分30秒くらいの設定を考えています。

――予選会の目標順位は?

小川:学生たちは7位通過を目標にしています。もう少し上を狙った方が7位に落とし込みやすいのかもしれませんが、現状を把握した上で確実に通過することを重視しています。

――そのために走力を上げることはもちろんですが、戦術的に考えていることは?

小川:添田さんが作り上げた集団走が確実に機能してきました。昨年は主力の3人はフリーで走って、ヴィンセント(現スズキ)、木榑(杏祐、現埼玉医科大学グループ)、荻原(陸斗、現YKK)の3人は想定通りに上位でフィニッシュしました。しかし、風が強かったのに集団は予定のタイムを変えずに走ったため、後半で崩れてしまいました。想定と違ったコンディションになった時の対策を考えていなかったんです。今年はいい条件も悪い条件も、色々なパターンを想定してタイム設定を変えることも考えています。そのために夏合宿の練習もこうやっていこう、とミーティングで話し合いました。

駅伝で結果を出し、いつかは日本代表選手を

――箱根駅伝では17年以降20位、19位、18位、19位、18位と低迷しましたが、前回は15位と順位を上げました。どんな違いがあったのでしょうか。

今年1月の箱根駅伝で1区の木榑(左)が区間10位で走り、国士舘大は好スタートを切った(撮影・北川直樹)

小川:私が把握しているのは助監督として戻ってきてからの2大会になりますが、21年は本戦に向けても集団で練習して上げていく方法で臨みました。集団の力を借りて速いタイムで走ることもできるのですが、単独で走る力がつきません。22年は木榑などは個人で仕上げました。1区の木榑が区間10位でスタートして、2区のヴィンセントが区間2位で3位に上がると、往路はその流れを生かしてシードの10位から45秒差でフィニッシュできました。予選会と本戦は別もので、準備の仕方が違ってきます。エースをしっかり作らないと戦えませんし、私の使命もエースを作ることです。

――練習も個人に合わせたメニューが多くなりますか。

小川:すでに昨年から少しずつ増えています。Aチームは今、30人くらいですが2人くらい設定タイムを変えています。そこもミーティングを使い、細かい部分は最終的には私と話し合って決めますが、選手から発案できるようにしています。昨日も綱島が、次のインターバルの設定タイムをこうしていきたい、と話してきましたね。本数をプラスアルファで行う選手もいます。留学生が2区に行くとしたら、本戦の1、3区候補は予選会から勝負するようにならないと通用しません。

――予選会後の練習で他に変更する点は?

小川:11月下旬からの強化期間で毎年合宿をしていますが、アップダウンの多い場所に変える予定です。標高の高さも変化をつけようかと考えています。

――自分で練習を考えて行うのが国士舘大の特徴になりそうですか。

小川:はい。選手本人が理解したり感じたりして取り組まないと、やらされている練習になってしまいます。大学時代にチームの練習に合わせたこともありましたが、私も基本的には自分でメニューを考えて練習していました。田村高校(小川監督の母校で全国的な強豪校)では、下重庄三先生(小川監督がコーチ時代の国士舘大監督)がそういった方針で指導してくれました。自分は全国で勝負したかったので、このくらいの練習はやりたいと考えて、自分でプラスアルファの練習をやり始めたんです。プライドとか自覚という部分ですが、そこが成長の要因の一つだと確信しました。それは今の指導にも生かしています。学生たちから「自分はこれをやりたい」「このタイムで挑戦したい」「留学生と一緒にやりたい」と言い出す雰囲気を作っていますね。無謀なら止めますが、どんどんやらせるようにしています。仮に失敗しても次にどうやったらいいか、判断材料になりますから。

カマウ(中央)は他大の留学生にも挑み、チームを牽引している(撮影・藤井みさ)

――大学時代に箱根駅伝に出られなかった小川監督が、母校に戻って指導をすることになったことにどういった意味があると感じられていますか。

小川:現役の最後の3年間は母校でコーチもしていました。その後、実業団の女子チームのコーチ、実業団男子チームの監督と経験させてもらってから母校を指導する立場に戻れたことは、運命なのかもしれません。私の学生時代より選手たちの意識も高いですし、コーチだった10年前には藤本拓(大学3年生の時に5000m13分38秒68、卒業後にマラソン2時間07分57秒)や伊藤正樹(大学4年生の時に28分28秒64)たちがいて、我も強かったですけどエースとしての自覚を持ってやっていました。そんな母校の後輩をしっかり育てたいし、尊敬する国士舘大学陸上部の岡田雅次監督と一緒にやれることも良かったです。岡田監督には10年前もお世話になりましたが、投てきや混成競技で日本記録保持者や代表選手を何人も育てられている指導者です。ずっとグラウンドにいらして選手のことをよく見ているし、環境作りや組織の動かし方も徹底してやるところは勉強になります。私もオリンピックや世界陸上の代表を出したいですけど、まずは世界クロスカントリー選手権、世界ハーフ、ユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームズ)、何の大会でもいいので代表を育てたいですね。

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