大舞台に強いバスケ仲間への羨望が、俳優業に生きた 松田悟志のバスケ道3完
2002年から03年にかけて放映された特撮テレビドラマ「仮面ライダー龍騎」で主演の秋山蓮/仮面ライダーナイト役を演じた俳優の松田悟志さん(40)は学生時代、バスケットボールに情熱を注ぎました。京都芸術短期大学(現在は京都造形芸術大学へ統合)時代には、当時あった関西芸大リーグに4度出場し、3度の優勝。最優秀選手にも3度選ばれました。松田さんの人生について、3回の連載でお届けします。最終回は短大を経て、俳優として活躍するまでのことについてです。
デザイナーを夢見て短大へ、バスケ熱は醒めず
高校時代にバスケに燃えた松田さんは大学進学にあたり、岐路に立たされていた。スカウトされた関西学院大に進んでバスケを続けるか、以前から夢見ていたデザイナーになるために芸大に進学するか。悩んだ末に選択したのは、後者だった。
「本当は高校に入る段階で、大阪工芸高校に進もうと考えてました。でも母からちゃんとしたサラリーマンになってほしいと言われて、バスケが強くて進学率も高かった東住吉高を選んだんです。でも僕はずっと母の望んだ道を歩いてきただけ。やっぱり自分の夢を追い求めたいと思い、芸大に行きたいと母に伝えました」
松田さんは1年間浪人した末、京都芸術短大に入学した。学校ではデザイナーになるための勉強に励む一方で、バスケ部にも入った。当初は遊び程度のつもりだったが、実際に入ってみると想像していた以上に本格的に活動していることが分かった。
「サークルではなくちゃんとした部活で、負けると泣く選手がいるような熱いチームでした。関西芸大リーグというのが春と秋にあって、そこに参加してました。2年間で計4回の芸大リーグに出て、3回優勝しました。その3回すべてで、僕はMVPになりました」
厳しく抑圧された高校の部活とは違い、短大には監督もおらず、練習や運営もすべて自分たちの手でやっていた。シュートだけ打っていればよかった松田さんのプレーのスタイルも変わり、ドリブルもできるしシュートも打てる、オールラウンドプレーヤーとして活躍した。
勉強もバスケも全力だったから、バランスがとれた
勉強が主体の短大生活だったが、バスケとの両立は決して難しいことではなかったという。「体力だけはありましたから(笑)。両立というと大変な感じがしますけど、僕としては両方やってたという感覚ですかね」。芸大だけに日々の課題も多く、それをこなすための徹夜作業も珍しくなかった。ほとんど寝ないまま練習に参加することもあったという。でも松田さんは、それをつらいと思ったことはない。松田さんにとって、勉強とバスケは表裏一体の関係にあった。
「無茶苦茶な生活でしたけど、バスケをしてなかったらうまく回ってなかったと思いますよ。大学でファッションの勉強を頑張る。でもその裏でバスケを頑張ってないと、勉強の方もうまくいかなかったと思うんです。一つのことに没頭するのが苦手というか、デザインに打ち込んで寝る間も惜しんでやりながら、バスケも必死でやる。どっちも全力でやることで、バランスがとれてたんだと思います」
課題が終わらず練習に参加できないときは、本当に悔しかった。だからいつも、集中して課題を早く終わらせるように心がけていた。
エースとして活躍した短大時代を経て、松田さんはバスケがさらに好きになったという。
「自分が試合を決するポジションになったことが大きかったですね。中でも外でも点をとるのが仕事。これまでは自分の肩に重責がかかったことがなかったんですけど、短大では僕のパフォーマンスが勝敗に関わってました。それがうれしかったし、楽しかった。高校のときももちろん好きでしたけど、短大のときが一番バスケにのめり込んだ時期だと思います」
短大での活動を機に、バスケへのアプローチが大きく変わった。勝敗やライバルの存在に心を揺さぶられることなく、純粋にバスケを楽しめるようになったからだ。
Bリーガーはすごい、もっと彼らを盛り上げたい
松田さんは将来、デザイナーになると心に決めていた。しかし在学中に参加した「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」をきっかけに芸能界への道が開け、卒業後はそのまま芸能活動のために上京した。そこでもバスケへの情熱は冷めず、社会人チーム「SILLY PRESIDENTS」を立ち上げ、東京都の大会で優勝するほどのチームになった。
現在は第一線から退いたものの、バスケ好きの仲間たちと一緒に楽しみながらプレーを続けている。「最近は美容師の運動不足解消のために、一緒にプレーしてます。みんな素人なんですけど、バスケの楽しさを多くの人に伝えたいと思ってます。バスケの裾野を広げることが、もっとできたらいいなって」
「バスケはやるのも好きだし、見るのも好き」。そう語る松田さんは、日本のバスケ界を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。中学からバスケを続けてきた松田さんにとって、Bリーグの選手たちはまさに雲の上の存在。一緒にプレーしてきたライバルたちも入れなかった世界が、どれだけすごいところかを理解しているからだ。
「バスケを本気でやってきたからこそ、彼らのすごさが身に染みて分かる。だからそんな彼らがやってることを何とか盛り上げたいですね。ツイッターで援護射撃したり、そういう風な関わり方が、いまは楽しいんです」
限界までやり続けなければ、分からないものがある
学生時代にバスケにのめり込んだ経験は、社会に出たいまも大いに役立っているという。松田さんは「体育館のサイズ」というキーワードを用いて、体育会で活動するいまの大学生たちにメッセージを送ってくれた。
「高校時代、母校の体育館では活躍できるのに、大きな会場になったとたんにダメになる選手がいたんです。僕もそういうタイプでした。でも、その逆もいる。母校では80点くらいの出来の選手が、大きな会場では自分の持ってる力以上のものを発揮するんです。つまりそれが、その選手が持ってるサイズ感。言い換えればスケールですね」
バスケを通じて、スケールを知る感覚を養えたことは何より大きかった。それは俳優として活躍するいまでも、生きている。
「僕らの仕事でも、小さい舞台で輝く人と大きな舞台で輝く人がいる。ただ、スポーツも勉強もそうだけど、限界までやり続けなければ、そのサイズ感をつかむことはできないんです。僕自身もそうだった。手を抜いたり小手先でやったりするのではなく、思い切ってやった結果、バスケではプロレベルには到達しないことを理解できた。当時は悔しかったけど、そういう経験があるからこそ、いまの仕事でも手を抜かずに自分の限界まで頑張れる。いつか“大きな体育館”でも活躍できるように。そう思って、いまの仕事に取り組んでます」
松田さんにとって“大きな体育館”となったのは、歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんと共演した日生劇場の舞台だった。
「こんなに素晴らしい劇場で共演者にも恵まれて、たくさんのお客さんの前で演じられる。そこで自分の力を出せないなら、この仕事はやめた方がいいと思いました。高校時代に大きな体育館で活躍するチームメイトに感じた羨望(せんぼう)を、あの舞台に立った瞬間に思い出したんです。当時の経験はここにたどり着くためのものだったんだって。そのときに、バスケをやってきて本当によかったと思いました」
挫折や失敗は決して無駄ではない。その先につながるものだ。バスケに全力で向き合ってきた松田さんは、その真理を実感している。