大東大主将・川澄克弥 シーズンの最後に初めて見せた満面の笑顔
昨年の10月26日にあった箱根駅伝予選会。大東文化大は総合18位に終わり、8年ぶりに本戦出場を逃した。チームで9番手に沈んだ主将の川澄克弥(4年、水城)は「情けない走りをしてしまい、チームに申し訳ない気持ちでいっぱい」と振り返ったが、この1年、川澄の苦悩は絶えることがなかった。
エース候補を最終年で襲った病
大学進学にあたり、川澄は東海大や駒澤大など箱根駅伝強豪校からの誘いを断り、「奈良(修)監督の人柄のよさに惹(ひ)かれました」と、大東大を選んだ。大学3年生のときに5000mで13分台、10000mでは28分台に突入するなど、学生トップランナーのタイムをマーク。エースとして着実に実績を重ねてきたが、大学ラストイヤーは不調に苦しんだ。
3年生のときの箱根駅伝では、エースが集う「花の2区」に抜擢されたが区間最下位。また同月の全国都道府県対抗男子駅伝で、茨城県代表としてアンカー区間を任されるも、区間39位とチームに貢献できなかった。その後、不調の原因が貧血であると判明。2月の冬合宿でも、思ったように練習メニューを消化できなかった。
冬期から春先にかけては、レース出場数も少なかった。約2カ月半ぶりに臨んだ関東私学六大学対校では、練習の一環として1500mを2本と3000mで計3本走った。「練習もうまくできていなかったけど、レースの感覚をつかめた」と復調の手応えを感じ、本格的な陸上シーズンへの期待を高めていた。
1年間苦しみ続けたキャプテン
迎えた5月の関東の大学生ナンバーワンを決める関東インカレ。前年には10000mで5位に入賞した実績があったが、調子は戻らず、34位に沈んだ。6月の全日本大学駅伝関東地区選考会には「チームを押し上げる走りをしたい」と臨むも、最終組で23着とチームに貢献できず、大東大は2年連続で全日本出場権を逃した。9月の全日本インカレ10000mでも24位と、主将として期待されながら本来の走りを取り戻すことなく、19年の主要なトラックレースを終えた。
長いトンネルに苦しむ川澄は、9月に大東大短距離の佐藤真太郎監督に「走りのバネの使い方」のアドバイスをもらうなど、試行錯誤を繰り返した。それでも、箱根駅伝予選会でエースとしての走りを見せられず、主将として臨むはずだった本戦への出場を逃した。
予選会の報告会では「今年に入ってから全日本大学駅伝選考会など本当に苦しい思いをしてきました。ただこの日のために全力で努力し、自信を持って全員で取り組んできたと言えます。それでも(予選を)通過できなかったということは、スタッフ含め全員に何かが足りないということだと思います。自分自身今年1年間苦しみ、キャプテンとしてチームを引っ張れなかったことを本当に申し訳なく思ってます」と語った。
恩師への感謝を胸にマラソンで世界を目指す
予選会を終えた4年生は、11月に退寮した。川澄は地元・茨城に戻りトレーニングを続け、12月1日の日本体育大学長距離記録会に参加。学生最後のトラックレースに挑んだ。
5000mに出場した川澄の走りは、明らかにいつもと違った。これまでの不調を吹き飛ばすように、序盤から先頭集団につき、さらにラスト1周まで集団に食らいついた。結果は13分55秒25の自己ベスト。ゴール後、今シーズン初めて見せた満面の笑顔は、恩師・奈良監督への思いも込められていた。
川澄は「想像以上にいい人で、この4年間は素晴らしい環境で陸上ができました。退寮してから結果が出ましたけど、そのベースを作ってくれた奈良監督にはとても感謝してます」と力強く語った。
卒業後は、伝統あるカネボウの実業団チームで陸上を続ける。ライトグリーンの襷(たすき)を後輩に託し、「マラソンで、世界で戦える選手になりたい」と実業団でのさらなる飛躍を誓った。