フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years. 2020

中村優、フィギュアのため北海道から関西大に 引退後は父と同じすし職人の道へ

15年間のスケート人生にピリオドを打った(すべて撮影・浅野有美)

フィギュアスケートのため北海道から大阪へ渡った。23歳の中村優(しゅう)は、競技に専念するため大学を2年間、休んだことも。グランプリシリーズに出場し、インカレで優勝。今春スケート人生に区切りをつけた。大学をやめ、すし職人の修行に入る。挑戦は終わらない。

 いつも少し上に宇野昌磨がいた

釧路市出身の中村は小学2年生のころスケートを始めた。新聞でフィギュアスケートの記事を見た祖母に勧められ、教室に通うようになった。本人は遅咲きだと自認している。全6種類の3回転ジャンプが降りられるようになったのは、中学生になってから。まずはジュニアでトップ争いのできる選手を目指した。

 中村の上にいつもいたのが、1学年下の宇野昌磨(トヨタ自動車)だった。「表現力も滑りも、ほかの選手と全然違いました。ノービスの滑りじゃなかったです」。中1のとき、全日本ノービス選手権(カテゴリーA)で宇野に続いて2位。翌年の国際大会では優勝。中3では宇野とともにユースオリンピックに出場し、6位に入った。トップクラスを目指し、着々と階段を上っていった。

高校で地元北海道を離れ大阪を拠点に成長してきた

 あこがれの橋大輔がいる関西大へ

高校進学を機に、2010年バンクーバーオリンピック銅メダルの髙橋大輔(関西大学カイザーズフィギュアスケートクラブ)を指導する長光歌子コーチに師事するため、関西大学(大阪府高槻市)のリンクに拠点を移し、関西大学北陽高に通った。髙橋は憧れの先輩だった。「ステップや表現がかっこいいだけでなく、人としてもかっこいいです」と語る。とくに練習に入ったときの集中力が他の選手とは違っていた。その姿に学ぼうと、いつも髙橋の背中を追っていた。

その髙橋に1度だけ、表現力について尋ねたことがある。「自分が表現したいと思っても、それが見ている人に伝わらなかったら何も意味がない、と。見ている側の気持ちを考えることが大事であって、ほかの人の曲でも、その音に合わせて跳んでみると感性が磨かれていく、って教えてくれました」

 大学を2年休学、スケートに専念

高校3年生でターニングポイントがあった。世界ジュニア選手権の代表選考を兼ねた全日本ジュニア選手権で3位に入ったが、けがをして直後の全日本選手権は12位に終わり、代表の座を逃した。そこから「もっと技術を伸ばしたい」と意識が変わった。関西大学政策創造学部2回生のときに心機一転、同じ関大のリンクで教えていた濱田美栄コーチに師事することにした。大学も休学して、競技に専念することにした。

環境を変えてすぐ、ジャンプの技術が上がった。それまでは感覚的な跳び方だったが、理論的に考えるようになった。「濱田先生の指導は、体がこうなるからジャンプがこうなるという部分がしっかりしてるので、そこを突き詰めて練習していくことで、自分が思っている以上に、1カ月ぐらいでジャンプが変わってきたのが分かった」という。得点源のジャンプであるトリプルアクセル(3回転半)が安定し、得点も上がった。

ほかの選手からも刺激を受けた。濱田コーチは18年平昌オリンピック女子シングル4位の宮原知子や全日本女王の紀平梨花らを指導していた。「梨花ちゃんは女子でトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)や4回転を跳んでいる。知子ちゃんはスピンやスケーティングといった地道な練習を何時間もやれる。意識が高く、視線を世界に置いて目指してました。そういった中で自分が練習できて、恵まれてるなと思いました」

その年の全日本選手権で自己最高の6位に入った。練習で4回転サルコーが跳べるようになると、トップ選手の背中が見えてきた。

2月の「明治×法政 ON ICE」では引退について発言を控えていた

 世界選手権を見て引退を決意

だが、そこからが険しい道だった。2019年はふるさとの釧路市であった国体の成年男子で優勝、ロシアであったユニバーシアード冬季大会の代表になるなど、国内では上位でも、世界で戦うにはまだ何かが足りなかった。濱田コーチにいつも言われている言葉があった。「優は優しいのはいいところだけど、試合は勝負だから、勝ちにいくんだと強い気持ちを持ちなさい」と。中村は「自分の中では勝つつもりでも、どこか勝負に対して貪欲になりきれてないところがあったかなと思います」と振り返った。

昨年3月にさいたま市で開催された世界選手権を見に行ったときに「引退」の2文字が頭に浮かんだ。世界でトップ争いをする羽生結弦や宇野昌磨らを目の当たりにし、レベルの差を痛感した。「自分が将来、世界選手権で滑っているイメージがまったく湧かなかった。もし出られたとしても何が残るのか。出たからには上位にいかないといけない。このまま思い出づくりのために競技を続けても、自分にとってプラスにならない。社会に出た先の人生の方が長いし、早く社会に出たほうが自分のためになるんじゃないか」

昨年6月、中村はこのシーズン限りで引退することを決めた。8月に濱田コーチに引退の意向を伝えると、寂しそうな顔をしながらも「次の道を頑張って」と背中を押してくれた。

いいライバルがそばにいてくれた

振り返れば、トップ選手が集う関大のリンクは中村にとってかけがえのない場所だった。とくに同じ大学に通う2歳下の本田太一(経済学部、関大高等部)はよきライバルだった。中村はループが得意でトーループが苦手、本田はその逆だった。「2人を足して2で割ったらちょうどいいのにね」と言いながら切磋琢磨(せっさたくま)した。

とくに印象に残っている試合は2019年1月のインカレだ。男子7、8級クラスで世界選手権代表の友野一希(同志社大、浪速)を抑えて優勝した。本田も3位に入り、関大から2人が表彰台に立った。

本田には今シーズンで最後になることは早いうちから伝えていた。本田はラストシーズンに向けて「楽しんで」と声をかけてくれた。2月、中村が東京であった引退エキシビション「明治×法政 ON ICE」にゲストとして出演したときも、見に来てくれた。「太一がいたから毎日練習を頑張れた。僕の支えになってくれました。いい仲間がいて幸せな時間でした」

引退エキシビジョン「明治×法政 ON ICE」に出演した仲間たちと記念撮影

すし店経営の父の見習い、会社経営に興味

引退後はすし店を経営する父の事業を引き継ぐため、見習いを始めるという。5回生で大学を中退し、経営の勉強もしていく。父にそのこと伝えたのは、昨年の秋。店は継がないと言い続けていただけに、どういう反応が返ってくるか気になっていたが、「いいじゃん」と、あっさり歓迎してくれた。「経済的に大変なスポーツをさせてもらった。15年間僕を支えてくれた分に匹敵するくらいのことを、していければと思います」

銀盤を離れ、中村の恩返しの日々が始まる。

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