明治大学・松原星 練習を味方につけて 駆け抜けた19年の最後は笑顔で
2月26日の「明治×法政 ON ICE 2023」をもって、19年のスケート人生の幕を閉じた明治大学・松原星(あかり、武蔵野学院)。自分に妥協することなく、ひたむきにスケートに向き合い続けた。「燃えるようなスケート人生は送っていない。普通に、跳びたいから毎日練習していた」。自ら練習好きと語る松原が積み重ねた練習は、自分を裏切らない一番の味方になった。
意識変わったジュニアグランプリ出場経験
スケートを始めたのは3歳の頃。松原いわく、リンクによく連れて行ってもらい、お母さんから離れられない子だったが、リンクの上では一人楽しく遊んでいた。ノービス時代から試合に出場し、小学5年時、全日本ノービス選手権のノービスBで優勝。毎試合で結果を残すことを目標にしつつ、6種類のジャンプを習得するために跳び続けていた。何度も転び尻を打って血腫ができてしまうこともあった。それでも「放課後に練習に向かうことを嫌だと思ったことは一度もない。練習が大好きだったから」。小学校高学年の頃にはテレビの密着取材がついていた期間もあり、将来の可能性を見込まれる一人であった。
中学2年時からジュニアに上がったものの「常に一歩足りない選手だった」。ジュニア1年目は全日本ジュニア選手権出場に届かず。翌年には全日本ジュニアに出場したものの、SP(ショートプログラム)落ち。高校1年時では全日本ジュニア総合7位と、目指していた全日本選手権への推薦出場を逃した。
「ジュニアグランプリ(GP)に出たい。出たいから練習していたし、それに出ないとトップに入れないから」。松原にとって高校1年から2年は勝負のシーズンだった。高校2年時には、補欠から繰り上げでジュニアGPシリーズのポーランド大会に出場した。
「ようやく出られた」と、トップ集団に食い込めるチャンスを手にしたことにうれしさを感じる。だが、本番ではSPでのジャンプのミスが響き、結果は総合6位。同大会に日本から出場し3位で表彰台に上がった笠掛梨乃(中京大学)を見て、現実を思い知った。「絶対に点を取れる部分を突き詰めてきていなかった。ジャンプを失敗したら、何も残らなかった」。自身にとって大一番の舞台は、ジャンプ以外の要素で点を取り切ることの重要性に気付かされて終わった。
帰国後、専門の先生の指導も受けながら、スピンやステップを猛練習。ジャンプの練習も怠らなかった。ジュニアGPで味わった悔しさが松原を突き動かしていた。そして重ねた努力の成果を発揮すべく、ポーランド大会から1か月ほどして全日本ジュニアを迎えるが、結果は総合12位と全日本推薦出場枠に入れず。大会後に分かったことは、腰の疲労骨折だった。
その後に控えていたインターハイや国体には出場せず、腰を治して高校3年のシーズンを迎えシニアに転向した。全日本出場に懸ける思いと前年度のジュニアGPでの悔しさをバネに、より一層練習に励んだ。
「練習で完璧でないと本番で出せないのが当たり前だと思っていた。それくらい練習しないと本番に向かいたくなかった」。執念と練習が結果につながり、東日本選手権1位で念願の全日本出場を決めた。初出場の全日本で結果は総合11位。歓声や拍手、緊張で足が浮いてしまうような体の感覚も含めて、忘れることのない全日本になった。
練習できないことの苦しみ
明大に入学し、大学デビュー戦で優勝。幸先はよかったが、夏に左足首を捻挫してしまう。「練習がとにかく大好きだったから、思い通りに気持ちよく練習できないのがすごくストレスで」。再び足を滑らせないように恐る恐るジャンプを跳ぶこと。今まで愚直に練習に取り組んできたからこそ、練習を思い通りにできないことに苦しんだ。それでも自身にブロック大会を棄権する選択肢はなく、痛みもある中で覚悟して挑み、東京選手権を通過。東日本の前には右足首を捻挫してしまったが、全日本にたどり着いた。
1月のインカレ、国体にも出場しシーズンを通して試合に出場した。「高3の練習の貯金があったからだと思う。失敗しても次への自信がなくなるわけではない。それくらい練習していた」。過去の積み重ねがものをいったシーズンだったが、けがの経験は練習と自分の意志の結びつきを確かめるきっかけとなる。「練習の成果を試合で出せることが私の一番の喜び」。それから本番で力を発揮するための練習を試行錯誤するようになった。
自分なりに追求し尽くす
大学2年から3年にかけてジャンプの跳び方を見直した。トップ選手の動画を見て、自分の跳び方と比べてみたり、見た目でまねて跳んでみたり、その繰り返しで大学2年のシーズンを乗り切った。だが、松原の中では完成したとは言えなかった。
見た目で分かったことを反映するだけでは自分にはまり切らず。根本的に跳び方を変えるため、名古屋まで教わりに行くことを決めた。跳び方の視点の引き出しを増やし、ジャンプを確立させていく。それに加えて、本番で成功させるにはどうすればよいかを考えた。
ジャンプが3本しかないSPは苦手で緊張していたという。そんな自身を見つめ「緊張で跳べないとはどういうことか」を考えた。SPの緊張状態と似ている状況は朝練の時間にあると感じ、何も考えていない状態から曲をかけてジャンプを跳ぶようにしていた。独自の備えを経て、試合での効果も感じることができた。考えたことや感じたことを練習に余すところなく生かす。リンクにいない時も、寝る直前までジャンプのことを考え抜いた。
大学3年時の1月には練習拠点を変更。そのわけは「練習や曲かけをもっとしたかったから」。拠点の周辺リンクの閉鎖に伴い、練習時間が減少。自らリンクを貸し切って練習をすることもあったが、その負担を背負い続けることは現実的ではなかった。最後の1年を納得のいくものにするため、拠点を変える意思は時間を要さずとも固まった。
過去の練習も味方になったラストシーズン
大学4年時の東京選手権から数日後、過去に感じたことのある苦い思いがよみがえった。練習中、ジャンプを回って着地の際に横滑りしてひねってしまった。右足首の捻挫。1年時に捻挫を経験したからこそ、この先のつらさを分かっていた。
「19年続けてきて最後はこれか。私のスケート人生、東日本で終わってしまうんだ」。全日本には進めないのではないかと、1週間ほど涙を流し気持ちは落ち込んだ。
そんな時、背中を押してくれたのは「今の自分ができる最大限のことをする」という言葉。これまで一番近くで支えてくれた母の教えだった。捻挫していることを受け入れ、ジャンプの構成を落とすことに。スピンやステップではレベルを絶対に落とさないように仕上げていき、東日本を通過。全日本への関門をくぐり抜けたが、その後も足首をひねってしまい構成を上げることのできないまま全日本に臨んだ。
「ジャンプが好きでどうしてもこだわってしまい、この構成で臨むことには葛藤(かっとう)があった。それでもレベルを下げている分、失敗した時点でSPを通過できないのかなと思っていた」
迎えた本番、ループで転倒し自身ではショート落ちを覚悟したが、24位でフリーに進出。最後の全日本を総合23位で終えた。
松原の最後の競技会となったのは国体。SPで「Hallelujah(ハレルヤ)」を滑り終えた松原はすがすがしい笑顔を見せた。「全盛期のサルコウ+トーが戻った感じ。跳ぶ前の『あ、これは跳べる』という状態の記憶もあるし、跳び終わったところの記憶もすごくある。思い通りにサルコウ+トーが跳べた」。本番でなかなか降りることのできていなかったループも着氷させた。「自分の中でも感動した。成功して久しぶりにうれしかった」。得点は大学1年時以来の60点台をたたき出し、心から喜ぶ姿を見せた。
フリーでは、冒頭で自身の武器であるサルコウートーループのコンビネーションジャンプを跳ぶも、セカンドジャンプが1回転に。そのリカバリーが決まったのは中盤の3回転ループの後だった。
「ループをつけようと思っていたらパンクしていたと思う」。成功させる意識は持たず流れのままに跳んだループで着氷し、とっさの判断で3回転トーループを跳び見事に決めた。それはまさに過去の練習が生きた場面だった。
「跳んだ瞬間にトーループをつける体の動かし方は得意」。6種類全てのジャンプに3回転トーループをつける練習をしていた松原。最初でコンビネーションが決まらなかった時のために、プレッシャーをかけずにリカバリーできるジャンプはどれかを把握するために、その練習はジュニアの頃に取り組んでいたもの。その頃に体に染みついたものは抜けていなかった。観客から拍手が沸き起こる見事なコンビネーションジャンプを跳んでみせたのだった。
演技披露最後の場は2月末の「明治×法政 ON ICE 2023」。会場は、小学4年時のクラブ創設当時から過ごした東伏見のリンク。「Hallelujah」を披露し、冒頭で3回転サルコウー3回転トーループのコンビネーションを決めた。アンコールで披露したのは「ファインディング・ネバーランド」のステップ。自身が好きな曲でいくら練習しても飽きることのなかったプログラム。勝負の高校時代に滑っていた思い入れのあるプログラムを選んだ。観客の集まるリンクで、スケート人生を笑顔で締めくくった。
熱意を秘めた練習は最後に自分を裏切らなかった。「思い返せばけがばかりしていた19年だったけど、いろいろな壁があった。それを乗り越えて頑張るしかなかったけど、乗り越えたからこそ今の自分がいて成長してこられたと思う。自分のできることはやり切った」。真っ直ぐにスケートに向き合い続けた先で、あかるい笑顔が自分自身を照らしていた。