フィギュアスケート

日本大学・青木祐奈(上) 都築章一郎コーチのおかげでセカンドループと出会えた

日本大学4年の青木祐奈はNHK杯に初出場する(撮影・浅野有美)

11月24~26日に大阪府門真市で開催されるフィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第6戦NHK杯に、日本大学4年の青木祐奈(ゆな、横浜清風)が初出場する。3回転ルッツ-3回転ループの高難度の連続ジャンプを武器に、ノービス時代は国際大会で優勝するなど注目された。苦しんだジュニア時代をへて、いよいよシニアの大舞台に立つ。2回連載の前編は青木がスケートを始めてから、MFアカデミー移籍に至るまでを紹介する。

羽生結弦からジャンプのアドバイス

青木は5歳の頃、神奈川スケートリンク(横浜銀行アイスアリーナ)でスケートを始めた。6歳の頃から、オリンピック2大会連続金メダルの羽生結弦さんらを指導した都築章一郎コーチに師事し、力をつけていった。

2011年の東日本大震災後、仙台の拠点を失った羽生さんを同リンクが受け入れ、青木は一緒に練習する機会に恵まれた。

「すごい選手なので、一緒に滑れるだけで光栄でした。『肩を水平にして跳んだらもっといいよ』とアドバイスをいただきました。今でもジャンプが崩れた時に、羽生君の言葉だからこそ、そのアドバイスがよみがえってきます」

2015年全国中学校大会で中学1年生ながらフリーで1位、総合4位に入った(撮影・浅野有美)

ジャンプを跳ぶには「勇気と決断」

都築コーチからは、「ジャンプを跳ぶには勇気と決断」と教えられ、他の選手がやっていないジャンプに積極的に挑戦した。

青木の武器である、3回転ルッツ-3回転ループの高難度の連続ジャンプもそこから生まれた。青木が12歳の頃、都築コーチからセカンドループを試してみるように言われた。連続ジャンプの2つ目はトーループが主流で、ループは回転不足がとられやすく、組み合わせる女子選手は少ない。しかし、青木は単独の3回転ループが得意だったこともあり、すんなり跳べた。

「先生は何事にも抵抗がないので、他の選手がやらないことにも積極的に取り組ませてくれました。自分の可能性を広げてくれたと思っています。先生のおかげでセカンドループに出会えました」

都築コーチは、羽生さんや門下生だった三浦佳生(オリエンタルバイオ/目黒日大高)にも早いうちから4回転を跳ぶように指導していた。そして都築コーチの予言通り、男子のジャンプは進化していった。

「先生は、人間は5回転ができると常に言っていました。ジャンプの種類がダブルからトリプルになって、トリプルが4回転になって、今ではイリア・マリニン(アメリカ)が4回転半を跳んでいます。先生は時代の変化を長く見ているからこそ、時代を先取りできるのだと思います」

青木もセカンドループにチャレンジし、中学1年の時からプログラムの構成に入れるようになった。

そのシーズンは、アジアンオープントロフィーのノービスクラスで優勝。全日本ノービス選手権カテゴリーAで初優勝を果たすと、推薦で出場した全日本ジュニア選手権では年上の選手たちを押しのけて総合5位と大健闘。同じくノービス選手で総合4位だった本田真凜(JAL/明治大学、青森山田)とともに、次世代を担うスケーターとして注目を浴びた。

「ノービスの頃は野辺山合宿から楽しい日々が続いていました。国際大会やジュニア合宿にも参加させていただき、目指す位置が高くなり、一番飛躍した年でした」と振り返る。

しかし、そこからが試練の始まりだった。

2015年全日本選手権女子SPの演技(撮影・朝日新聞社)

無双のノービス時代から苦悩のジュニア時代

全日本ジュニア上位入賞や国際大会優勝など、まさに「無双」だったノービス時代。だが、ジュニアに上がると暗雲が漂い始めた。ジュニアGPシリーズを前に腰椎(ようつい)分離症を発症。初出場のジュニアGPシリーズリガ大会は7位と結果が出せなかった。その後も成績を落とし、自信を失った。

「自分では気にしていないつもりでも、自信がどんどんなくなっていって。当時はあまり気づいていなかったんですが、今振り返ると、大会でそこまで大きなミスをしていないのにすごく落ち込んでいました」

コーチや母親からは、プログラム構成の難易度を落として完成度を上げる方向性を打診されたが、青木は連続3回転ジャンプだけは譲れなかった。「3-3をやらないと意味がないというか、そこでやめるのは完全に諦めという自分のプライドがあった」と言う。

練習ではできていても試合になると失敗する。他の選手がGPシリーズで表彰台に乗っている姿を見て負い目を感じ、周りから見放されていくような気持ちになった。母の美和さんに毎日のように「やめたい」とこぼしていた。

左から青木祐奈(左)、本田真凜、坂本花織。2016年全日本ジュニア選手権の滑走順抽選後に仲良く記念撮影(撮影・朝日新聞社)

「やめてもいいよ」 寄り添ってくれた母

どん底は横浜清風高校2年時の東日本ジュニア選手権だった。

同じリンクで切磋琢磨(せっさたくま)していた同学年のライバル、川畑和愛(ともえ、早稲田大学、N)が優勝し、青木は4位に終わった。

「本当にスケートをやめようかな、と思ったぐらいしんどかったです。一緒に練習していた川畑選手が優勝して、年下の選手たちがジュニアに上がってきて活躍している時に、自分は満足いかない演技をして負けたことがすごく悔しく、自分に腹が立っていました」

苦しんでいる娘の姿を見た美和さんは、「無理しなくていいよ」「やめてもいいよ」と優しく寄り添った。青木はその言葉に救われた。

「母は私の話をとにかく聞いてくれて、常に味方してくれました。ノービスの頃は『ちゃんと練習しなさい』と言われていましたが、ジュニアになってからは励ましてくれることが多くなりました」

家族に支えられ、スケートを継続。その後の全日本ジュニアで5位に入り、全日本選手権にも推薦出場した。

2015年全日本選手権女子フリーの演技(撮影・朝日新聞社)

骨折を乗り越え復帰するも全日本で惨敗

高校2年の終わりにババリアンオープン(ドイツ)に派遣され、銀メダルを獲得した。少しずつ自信を取り戻しつつあったが、高校3年の8月に左足首を骨折、そのシーズンを全休することになった。

けがをした当初はショックが大きかったが心は折れなかった。モチベーションになったのは、アイスショー出演の目標だった。「以前、ファンタジー・オン・アイスのゲストスケーターに呼んでもらったことがあり、そのショーが楽しくて。結果を出せばショーに出られる、そのために頑張ろうと思っていました。『いったんリセット、休憩!』みたいな気持ちで、割とすぐに切り替えられました。翌年は地方の大会や小さな大会にいっぱい出よう! と母に話していました」。9月に手術を終え、11月に氷上に戻った。

2020年4月、日本大学に進学し、シニアに上がった。10月の東京選手権で復帰し、12月の全日本選手権では19位だった。

復帰戦となった2020年の東京選手権(代表撮影)

そして、大学2年の全日本選手権が青木にとってターニングポイントになった。

そのシーズンは、ショートプログラム(SP)の得点が60点を超え、成績が安定していた。さいたまスーパーアリーナで開催された全日本選手権に進出したが、SPで3本中2本のジャンプを失敗し、46.90点で最下位の30位に沈んだ。フリーに進めず、呆然(ぼうぜん)とリンクを後にした。

「あのときの全日本は半分くらい記憶がないです。練習でもしない失敗だったので。何が起こっているか整理がつかなかったです」

あまりにもショックな出来事だった。しかし、この試合がきっかけで、青木はMFアカデミー移籍という大きな決断をすることになる。

【後編】日本大学・青木祐奈(下) 移籍後の成長、将来の夢は振付師「表現することが好き」

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