フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years.2022

夢はミュージカル俳優 日大・緑川諒人、原点のリンクで幸せな引退試合

スケート人生に区切りをつけミュージカル俳優をめざす(すべて撮影・浅野有美)

日本大学スポ-ツ科学部4年の緑川諒人(りょうと、芽室)はフィギュアスケートとミュージカルにハマった学生アスリートだ。2度の骨折で大学時代の半分を棒に振ったが、引退試合となったインカレは自身がスケートを始めた北海道帯広市のリンクで滑ることができた。「いい4年間を過ごせた。後悔はない」とスケート生活には区切りをつける。卒業後は自慢の歌唱力を武器に中学時代からの夢だったミュージカル俳優をめざす。

山本草太の衝撃「うますぎ」

緑川は地元の北海道帯広市のリンクでスケートを始めた。小学生の頃は野球少年でスケートはリンクが営業している秋から冬だけ習っていた。

中学時代に2つの大きな出会いがあった。

一つは全国中学校スケート大会。上手な選手ばかりで衝撃を受けた。特に際立っていたのが中京大学の山本草太だった。「うますぎてよくわかりませんでした(笑)。明らかにレベルが違いました」。当時は3回転ジャンプさえ跳べなかった緑川。難しいジャンプを習得すると楽しくなった。中学時代でやめる予定が高校時代にはスケート中心になっていた。

もう一つはミュージカル。中学1年のときに親に連れられて初観劇。「こんなすごい世界があるんだ」。一瞬でとりこになった。もともと表現することが好きだったこともあり、直後に地元の児童劇団に所属。そしてミュージカル俳優を夢見るようになった。

コーチの指導でスケーティングが向上

スケートを続けるため大学進学を機に上京、佐藤紀子コーチに師事した。新横浜のリンクでは明治大学の井上千尋や昨年法政大学を卒業した小林諒真さんらと一緒に練習した。後輩には2022年四大陸選手権3位の三浦佳生(目黒日本大高)もいた。

「明治法政 ON ICE」で記念撮影をする緑川(前列左から2人目)、明治大学の井上千尋(前列右端)と同じリンクで練習した

特に上達したのがスケーティングだった。貸し切り練習や合宿で佐藤コーチがエッジの乗り方やひざの使い方を丁寧に教えてくれた。それがジャンプの向上にもつながった。

大学ではスポーツ科学を学び、動作分析やトレーニング計画の講義に興味を持った。「スポーツは準備期、試合期、移行期の3期があって期ごとにトレーニングする方法が変わってくるんです。自分は学んだことを生かせる環境にありましたがコントールすることは難しいです(笑)。すごい選手はそれができているんだと理解しました。それを学べたのが楽しかったです」

2度の骨折、仲間に救われた

大学時代は決して順風満帆とは言えなかった。2年で出場した東日本選手権、フリーの最後のジャンプで着氷に失敗し右足首を骨折。そのシーズンを棒に振った。

翌シーズンは復帰をめざし今までにないほど練習した。だが東京選手権後に再び右足首を骨折。全日本選手権の道が再び絶たれショックで泣き崩れた。心を閉ざしかけていたが井上や大学の先輩が気にかけてくれて救われたという。

親の教えも支えになった。「昔から『フィギュアスケートだけが全てではない』と言われていました。夢は舞台俳優でしたし、良い意味でも悪い意味でもフィギュアスケートに執着してないんです。高いお金払ってレッスンに行かせてもらって一生懸命やっていましたが、これで自分の人生がつぶれるわけではないと。そのときは仕方ないと割り切ってなるべく早く復帰しようと思いました」

ジムに通ったり、毎日腹筋を500回したり、復帰に向けて体づくりに努めた。昨春、氷上に戻るとジャンプの感覚をすぐに取り戻すことができた。

ラストシーズンは大好きな高橋大輔が使用した曲「オペラ座の怪人」を選んだ

引退試合「今までで一番楽しもう」

競技引退まで残された時間はラストシーズンの1年間。「ただ楽しく滑って納得して終われる1年にしようと思いました」。SPは一番好きな選手、高橋大輔(関西大学カイザーズクラブ)が使用した「オペラ座の怪人」、フリーは佐藤コーチが選んだ映画「ゴースト」の曲に決めた。

けがをしないことを最優先に練習を重ねた。結局、東日本選手権総合13位で全日本選手権には届かなかった。だが引退試合となった今年1月のインカレの会場は幸運にも自分がスケートを始めた帯広のリンクだった。しかも母親は大会関係者だったため無観客の会場で最後の演技を見てもらうことができた。

「今までで一番楽しもう」。ステップやコレオシークエンスを丁寧に滑った。「自分のリンクであったし、うれしかったですね。元クラブの先生にも最後の演技を見届けてもらえたのは幸せなことでした。スケートを大学まで続けてよかったなと思います」

人間として成長できた

大学の4年間で得たものとは。緑川は言う。

「人に恵まれて、人間として成長しました。フィギュアスケートの世界にいるとずっと上の人たちがいるのですが、大学だといても3学年上だけ。そこで価値観が変わるんです。練習の仕方もスケートの考え方も。大学に入ってからは自分の価値観だけで『いや、これはこう思う』と言うことはなくなりました。『そうなんだ、でもぼくはこう思うけど』と話すようにしています」

「明治法政ON ICE」であいさつする緑川

スケート一筋の生活もいいかもしれない。でも人生にはいろんな選択肢があっていい。トップ選手でなくても4年間競技に打ち込んだ緑川だから伝えられることがある。「競技としてのフィギュアスケーターは人生の中でたった5分の1、6分の1しかなくて。競技を終えた後の人生の方が長いです。もし悩んだり迷ったりしている後輩がいたら、あまり思い詰めすぎずフィギュアスケート以外のことも考えてみたら?と伝えてあげたいです」

3月5日にゲストとして出演した「明治法政 ON ICE」を最後にリンクに別れを告げた。引退後はミュージカル俳優をめざし、トレーニングに励む。「これまでも月に1~2回ボイストレーニングを受けたり、舞台をたくさん見に行ったりしました。歌はフィギュアスケーターの中では一番うまいと思います(笑)。バラード系が得意です」とはにかむ。

スケート人生にはピリオドを打った。次は小さい頃からの夢をかなえに新しいスタートを切る。

それぞれの夢に向かって 「明治法政 ON ICE」で引退選手が最後の滑り

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