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特集:駆け抜けた4years.2024

早大・山田大貴、水町泰杜と並ぶ「エース」までの道のり 早稲田スポーツ卒業特集4

水町(左端)との2枚エースにまで成長した早稲田大の山田(撮影・井上翔太)

早稲田大学の2枚エースとして4年時から水町泰杜(4年、鎮西)の対角を任された山田大貴(4年、清水桜が丘)。その高さと爆発力はすさまじく、仲間からも頼りにされてきた。ただ入学当初は「自分が試合に出る姿が全く想像できなかった」。同期や先輩を見渡せば、自分よりも全国で活躍してきた人ばかり。山田は4年間でどのようにしてエースにまで上り詰めたのだろうか。

【特集】駆け抜けた4years.2024

大学入学当初は、同期の活躍を見る日々

山田が競技を始めたのは中学1年生のとき。仲のいい友人と一緒にバレーボール部に入部した。高校ではユースの代表に選ばれるなど、その活動範囲は広がっていったが、全国大会の経験は決して多くなかった。山田が早大への進学を決めたのは、高校1年生のときに早大の練習に参加したことがきっかけだ。部員一人ひとりが人としてもプレーヤーとしても出来上がっており、チーム全員が同じ方向を向いていると感じた。厳しい環境の中でバレーがしたい。そう考えてのことだった。

入部当初は、全国を相手にしてきた他の部員の中で、自分はどれだけ頑張れるのだろうという不安を抱えていた。1、2年時は出場機会があまりなく、同期の水町や荒尾怜音(4年、鎮西)が試合で活躍している姿を見る日々。彼らと同じ段階に自分はまだいない。試合練習にも参加させてもらえない。バレーボールをしに来たはずなのに、ボール拾いやラインズマンをやっている。「何のために入ったんだろう」と山田の心は揺らいだ。ただ焦ってもどうにもならない。そのことはよくわかっていた。だからこそ「試合に出たい」と焦る気持ちを抑え、長い目で見て鍛えることにし、まずは自分の代で試合に出ることを目標に、練習に精を出した。

得点を決めコートを駆け巡る山田(以下すべて撮影・町田知穂)

3年生になり、同じポジションの大塚達宣(現・パナソニックパンサーズ)が日本代表活動のため、春季リーグから秋季リーグの途中までチームを抜け、山田にスタメンとしての出場機会が訪れた。大学で公式戦の経験は少ない。初めは自分が関東1部リーグでどれくらい通用するのか、常に挑戦し続ける気持ちで試合に臨んだ。

手応えとしては通用したという思いが3割、まだできるという思いが7割。苦手としていた守備面で課題を感じ、仲間が肩代わりしてくれることが多かった。結果として春季リーグ、東日本インカレ、秋季リーグはタイトルを獲得できずに終わった。「自分が原因なんだろうな」。試合に出ていた身として、山田は責任を感じていた。

喜びきれなかった東日本インカレ

全日本インカレでは大塚がチームに合流し、山田は外から試合を見ていた。今のチームなら負けないだろう。そう思っていた。しかし、結果は3位。このチームで勝てないのなら、来年、自分が大塚の代わりでポジションに入ったら求められるものはもっと大きいし、そうしないと勝てない。その思いが山田を奮い立たせた。

迎えたラストイヤー。春季リーグから早速スタメン入りし、エースとしての道を歩み始めた。自身の課題が明確になったのは東日本インカレだ。大会期間中はなかなか調子が上がらず、自身のパフォーマンスが落ちるとともにメンタルも削られてしまった。自分で自分を潰してしまうような時間を過ごす中、同期から「大貴はそんなに責任を感じなくていいから、自分のことをやってくれたらいいよ」と声をかけられ、4年生としての責任を背負ってくれた。ふがいなかった。自分にはまだチームを勝たせられる力も、大舞台で戦い抜くメンタリティーも備わっていない。チームは優勝したものの、ほかの部員と一緒に喜びきれない自分がいた。

東日本インカレでは調子が上がらない中、トスを上げ続けてくれた後輩に報いたいと思い、打ち続けた

最後の全日本インカレでMIP賞を獲得

「エースとしての自覚を持て」。松井泰二監督にそう言われたのは、夏合宿中のことだった。水町が国体への参加のため、チームを抜けたタイミングがあった。水町がいない分、自分への比重も大きくなる。その後は自分の気持ちを鍛えることを意識し、練習に励んだ。これが功を奏し、長期間行われる秋季リーグはコンディションが万全でない日もあったが、気持ちを途切れさせることなく戦い抜くことができた。

ついに迎えた最後の全日本インカレ。大会前に行った4年生対談では、同期の全員が山田をキーマンに挙げた。それだけ山田はチームを勢いづける選手になっていたということだろう。これまでは自分の調子が悪いことで勝てない試合もあった。それでも松井監督は自分を起用し続けてくれたし、仲間も自分をカバーしてくれた。だからこそ、「最後くらいはみんなに何かを返したい」。そんな強い思いで試合に臨んだ。試合では強烈なサーブで相手を苦しめ、ブロックを打ち砕くスパイクを放つ。止まらぬ勢いで見事に優勝を決めた。加えて最も印象的な選手に贈られるMIP賞も受賞。東日本インカレでは「まだまだエースになりきれていない」と語っていた山田は、最後の大舞台で、間違いなくエースになっていた。

早大での4年間は、気づいたら終わっていた。入部当初はチームと自分のレベルの差を縮めるため、ただただ練習に励んだ。以降も常に上のレベルを求められる生活。課題は尽きず、必死に練習していたら、時間があっという間に過ぎていた。今となっては楽しかったと思えるが、実際は苦しい4年間でもあった。時にぶつかり合った同期とともに乗り越えた4年間は、大きな財産だ。

全日本インカレではMIP賞も受賞。見る人の心を動かした

応援される選手になるために

山田が次のステージとして選んだのはV1の東レアローズ(東レ)。バレーを始めた中学生の頃は東レのジュニアチームに所属し、普段の部活動にプラスして週2、3回練習していた。いろんなチームにいる自分を想像したときに、地元の静岡県に拠点を置く「東レしかない」と感じたという。

東レは地元を大切にし、地元に愛されるチームだ。駅や商業施設でのイベント活動などを通じて、人々とも交流している。地元出身の自分が活躍すれば、見る人に活気を与えられるのではないか。そう考えると、東レはうってつけのチームだ。

目標は「応援される選手になること」。そのためには「プレーはもちろん、人間性も磨かなければいけない」と山田。Vリーグという厳しい世界に身を置くことで、この先も数々の困難が待ち受けているだろう。それでも大学4年間で得たものを糧に乗り越え、また笑顔でコートを駆け巡る姿を見せてくれるに違いない。

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