早稲田大・水町泰杜 ブロックに阻まれた一打から1年、有終の美は頼れる仲間とともに
第76回 全日本バレーボール大学男子選手権大会 決勝
12月3日@大田区総合体育館(東京)
早稲田大学 3-0 順天堂大学
(25-17.25-14.25-15)
あと1点の重みを突き付けられた1年前。筑波大学との準決勝最終第5セット、14-13。早稲田大学がマッチポイントの場面でタイムアウトを取った。水町泰杜(4年、鎮西)は、体の震えが止まらなかった。
「絶対自分にトスが上がってくるのはわかっていた。『ここで俺が決めないと終わる、4年生を負けさせてしまう』と思ったら、怖くて、心臓が出そうで。(中島)明良さんに『背中たたいて』と気合を入れてもらったんです。あんな感覚になったのは、人生で初めてでした」
だが、その1本は筑波大のブロックに阻まれた。繰り返すジュースの末、最後は大塚達宣(現・パナソニック)のスパイクがサイドラインを割り16-18。セットカウント2-3で敗れた水町は、人目をはばからず号泣した。
チームを勝たせる1点をつかみ取る選手になるため
あれから1年――。
絶対に、チームを勝たせる1点をつかみ取る選手になる。そう誓って臨んだ最後の全日本インカレ。早稲田大の「1」を背負う主将としてコートに立った水町が、ついにその瞬間を迎えた。2セットを連取し迎えた第3セット、24-15。最後は順天堂大学のスパイクがサイドラインを割り、25-15。早稲田大が2年ぶりの優勝を決め、水町は両手を掲げ、満面の笑みを浮かべた。
視線の先に、リベロの布台駿(4年、早稲田実業)がいた。誰よりも先に2人が抱き合い、勝利の喜びを分かち合う。
「秋リーグが終わった時も僕が最初に泰杜に抱きついたんです。全カレも優勝したら『頼むよ』って、2人で決めていました」(布台)
春、秋リーグと東日本インカレに続く「四冠」達成。全日本インカレで失ったセットは慶應義塾大学戦のわずか一つ。結果だけを見れば完勝だ。
だが、笑顔の陰で、水町は大きなプレッシャーを背負い続けてきた。
「プレッシャーを感じていないと思っていたけれど、実は昨日も一昨日も寝られなかったんです。今日も(スパイクを)ネットにかけたり、自分らしくないプレーが多かった。同期のため、後輩のために、と思っていたので、余計な力が入ってしまいました」
主将として、エースとして。水町の背負う重責を、一番近くで分け合ってきたのが布台だった。
旅行に行っても、結局バレーやチームの話題に
2人の出会いは中学時代の全国大会だ。当時からエースとして名をはせ、全国も制した水町について布台は「当然知っていた」と言う。逆に、自分のことを水町は知るはずがないと思っていた。ところが共に早稲田大へ進学することとなり、顔を合わせた時に、水町の発した一言に驚かされた、と布台は言う。
「『あ、JOC(全国都道府県対抗中学大会)で俺のフェイントを上げたヤツだ』って言われて、びっくりしました。泰杜は人に干渉しないから、人のことも覚えていないタイプなのに(笑)。そんなこと覚えていたんだ、と思って。僕からすればスターでしたけど、今振り返ると、普通に気さくなヤツで。そこから信頼関係を築けていけたんだと思います」
鎮西高(熊本)でも全国を制した水町は、世代を代表する大エース。1年時からレギュラーとして出場してきたのに対し、布台は4年になるまでリベロとして出場する時間がそれほど長かったわけではない。同期の人数も少なかったため、選手でありながら主務も務め、チームのマネジメントに携わることも多かった。だが、コートの中だけでなく、練習を離れても2人は仲が良く、休みになれば旅行へ出かけることもあった。息抜きの時間にもかかわらず、話題はいつも同じようなことばかりだった、と水町が笑う。
「特に4年になってからは2人で話す機会も増えて、普段からいろんな話をしているのに、結局旅行先でもバレーのこととか、チームのことばっかり話していた。もうよくね? とお互い言い合うんですけど、僕も駿もチームをよくしたいという思いが強くて、同じ価値観だったから、何でも話せて分かり合えた。駿がいないと、自分を保つのが大変な時期もありました」
厳しいマークを受けても、決して逃げなかった
布台が「エゴのないエース」と称するように、水町が目線を向けるのは常に“自分”ではなく“周り”のこと。入学から3年になるまでは「先輩を勝たせたい」と何本でもスパイクを打ち続け、4年になってからは「後輩を勝たせたい」とどんな状況でも「苦しい時は自分に持ってきていい」とトスを呼んだ。
当然ながら相手も「この状況で水町に上がるだろう」と予測し、前衛、後衛を問わず水町の前には2枚、3枚のブロックが並ぶ。失点を恐れるならば、そこで攻めずに一度切り返したり、空いたコースにフェイントしたりするなど、逃げ道をつくろうとすればいくらでもある。
だが、そこで「逃げない」のが水町だった。
「ラリーが続いた場面とか、いいレシーブでつないでくれた1本。もし自分がつないだ立場だったら『打ってくれ』と思う。だからそういう状況だったら、たとえ止められたとしても勝負したい。大事なのは『決まったか決まらなかったか』じゃなく、『逃げずに勝負したか』。僕はずっとそう思ってきたし、早稲田に入学したばかりの頃、キャプテンの(宮浦)健人(現・パリバレー)さんがまさにそうでした。僕も同じようになりたかったし、全員がつないでくれた1本を打って、決める。それが自分の役割だ、と思ってずっとやってきました」
全員が役割を果たし、深めた輝きと強さ
どんな状況でも逃げず、ひるまず、チームのために戦い抜いてきた4年間。最後の全日本インカレは、水町が描いた、また別の理想通りの展開となった。
連戦が続くトーナメント。コンディションを考慮し、セッターの前田凌吾(2年、清風)が「大事なところは泰杜さんに託したいので、できるだけ序盤は温存しようと考えていたし、チーム全体でもそう思っていた」と振り返るように、これまでの試合と比べれば打数は多くない。水町自身も「普段より少ないから、逆に調子がつかめない時もあった」と笑うが、チームで目標に掲げた四冠のために、全日本インカレ開幕前に危惧していたのが「4年生がチームを引っ張れる存在になれるか」ということ。特に「このチームのキーマン」と水町が名前を挙げたのが山田大貴(4年、清水桜が丘)だった。
3回戦の慶應義塾大戦は、山田自身「相手の雰囲気にのまれて、下へ打ちつけてしまったところをブロックにかけられた」と言う。なかなか調子が上がらなかったが、準々決勝の近畿大学戦から覚醒した。前衛、後衛、いたるところから「上げれば決まる」と言っても過言ではないほどの決定力を見せた。伊藤吏玖(4年、駿台学園)もブロックの柱として、自らポイントをたたき出すだけでなく、周囲の声掛けも積極的に行い、リベロの荒尾怜音(4年、鎮西)と共にディフェンスを牽引(けんいん)。水町も「周りに指示を出してくれたり、4年生全員が後輩に目を向けてプレーしてくれたりしたので、自分はやることがなかった」と笑みを浮かべた。
攻めるべき時には攻めるサーブ。相手が崩そうとしても崩れず、着実に攻撃へつなげるサーブレシーブ。前田の多彩なトスを山田や伊藤だけでなく畑虎太郎(2年、福井工大福井)、麻野堅斗(1年、東山)も効果的に決める中、要所は水町が締めた。まさに全員が役割を果たし、チームとしての輝きや強さを深めた。準決勝では東海大学の強打を布台がワンハンドでレシーブを上げ、最後は水町がたたきつけ、布台の頭ごと抱えて喜びを表現するシーンもあった。
6戦を終えて、こんなに体がピンピンなのは初めて
チームのために、人知れず悩みながらも笑顔で「大丈夫」と周囲を鼓舞し、苦しい時はどんな状況であっても逃げずに、自ら決める。そんな水町だからこそ松井泰二監督は「常にチームをまとめ、先頭に立つ信頼できるリーダーでありキャプテンだった」とたたえ、同期からは「キャプテンは泰杜しかあり得ない」と慕われ、後輩たちからも「泰杜さんがいるからいつもポジティブでいられた」と言わしめる。まさに唯一無二の存在だった。
全日本インカレの初戦で対戦した福島大学の主将、髙橋啓吾(4年、会津学鳳)もこう言った。
「僕たちの世代は、みんな水町選手を見て、学んで、成長してきた。最後に彼がいる早稲田と戦うことができて幸せでした」
優勝を決める最後の1点は相手のスパイクミスだったが、サイドアウトから早稲田の攻撃であれば、おそらく早稲田側だけでなく、会場のほとんどが「最後は水町で」と願ったはずだ。それほど、“エゴのないエース”は、多くの人の心をひきつけた。
「6戦を終えて、こんなに体がピンピンなのは初めて。僕が何もしなくていいぐらい、同期も後輩も頼もしくて、強かったです」
涙と笑顔。比類ない勝負強さ。四冠という快挙と、鮮烈な記憶を残し、水町がいた幸せな4年間は最高の形で幕を閉じた。