東京女子体育大・菊池日菜(上)SNSで「卓球天使」と話題に、強豪校で知った奥深さ
SNSで「卓球天使」と呼ばれて話題となった東京女子体育大学の菊池日菜さん(3年、五所川原商業)。卓球の強豪として知られた高校で厳しい練習と寮生活を過ごす中、改めて卓球の楽しさや奥深さを知ったという。インタビューを前後編の2回にわたってお届け。前編は卓球を始めたきっかけや高校で初めて経験した寮生活などについて。
【経歴】
きくち・ひな 2004年2月、埼玉県出身。地元の中学で卓球を始め、青森県の五所川原商業高校に卓球の特待生として進学。東京女子体育大に進み、関東学生リーグ2部に所属する一方、2024年から芸能活動を始めた。
最初はつらかった寮生活「津軽弁も聞き取れなくて……」
――出身は埼玉ですね。卓球を始めたのは?
「中学生の時です。小学校6年まで習っていた器械体操が部活になくて、これといったきっかけはなかったんですけど。友達が卓球部に入ったので、私も入ろうかなと」
――当時はどんな部活動生活でしたか?
「部員は20人くらい。最初は楽しくやっていたんですけど、試合や部内リーグをやっているうちに、『ここで一番になりたいな』という気持ちが強くなってきて。部活だけじゃなくて、外(民間)のクラブにも通うようになりました」
――青森県の強豪高校に進学しました。どんな経緯でしたか?
「中学2年あたりから、だんだん外の試合で結果が出てくるようになって。もっと強い人たちがいる環境(全国に出場している強豪校)で練習がしたいなと思うようになりました。五所川原商業高校の当時の監督に自分の卓球を見てもらい、特待生で入学させてもらいました」
――かなりの実績を残していたんですか?
「中学校では県大会出場レベルでしたが、これからの伸びしろと『ここでやっていく上で特待生で入部した方が本人のモチベーションも上がるだろう』という、監督の配慮だと思います」
――高校の卓球部には強い選手が多かったのでは?
「(3学年で)13人くらい。全員特待生で、同級生には(中学の)青森県1位の子とか、県外から来ていた人が先輩に2人いました」
――寮生活でしたね。
「3年間、寮です。最初の頃は本当につらくて。ホームシックもあって、毎日、お母さんに泣きながら電話して。最初は津軽弁も全然聞き取れなくて、コミュニケーションがうまく取れないこともありました」
ラケットを使った練習より、トレーニングが多かった
――練習が厳しかったようですね。
「休みは3カ月に1回くらいしかなかったです。午前9時から平日の門限が午後7時だったのですが、練習が午後8時に終わるので、練習が休みの日以外はほとんど出かけられませんでした」
――遊ぶことはできたんですか?
「高校の前にでっかいショッピングモールみたいなのがあって。土日に練習が終わったら、そのままそこにいって。でも、(寮に)食当番というのがあって、当番になったら出かけちゃダメでした」
「午後11時消灯で、SNSは禁止。あとメイクも、恋愛も。髪も、耳を出さなきゃいけないぐらいのベリーショートで。(アニメ『サザエさん』の)ワカメちゃんみたいな。ヘアピンも禁止で、本当に、おしゃれなんかしていなかったです」
――どんな練習をしていましたか?
「いま考えれば、練習よりトレーニングの方が多かったです。走ったり、バーピーをしたり。バーピーって分かります? 腕立てとジャンプがセットになっていて、それを200回やってから、3km走っていました」
――好成績を残せた?
「インターハイ(全国高校総体)にも毎年出ていて、私は3年生で(団体戦の)レギュラーに入ることができて、その年に団体で青森県6連覇を達成しました」
――個人での実績は?
「県でベスト8。でも、同級生や先輩がみんな強くて、上位はほとんど同じ高校の子ということもありました。ほとんど部内リーグみたい」
試合で勝つと「楽しい、好き」と思える
――厳しい指導を受けてきたのですか?
「監督からは3回ぐらいしか褒めてもらったことはないです。1回は2年生で青森県チャンピオンだった子に団体戦のシングルスでストレート勝ちした時。『見えてくる試合をしろ』とよく言われていたんですけど、普段の練習でやっていることを試合に生かして勝つと、褒めてくれるんです。お母さんにも電話したら、喜んでいました」
――監督はどんな教えでしたか?
「技術面よりは気持ち、メンタルの方をよく言われました。私は、競った場面で点を取れないことが多くて。日頃の練習のなかでも『1本を意識している違い』というのをよく言われていました」
――厳しい練習と寮生活。苦しいとは思いませんでしたか?
「本当にもう、逃げ出したいと思っていましたね。でも試合で勝ったり、卓球が好きという気持ちはぶれなかったので、それがあったから続けられたのだと思います」
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後編は24日に公開します。