卓球

特集:パリオリンピック・パラリンピック

明治大学・戸上隼輔(上)「チキータ」武器にパリオリンピックへ、プロレス好きの原点

今夏のパリオリンピック代表に内定した明治大の戸上(撮影・鈴木健輔)

今夏に開催されるパリオリンピックの卓球男子シングルス日本代表に、明治大学の戸上隼輔(4年、野田学園)が内定した。プロレス愛があふれ、自身の知名度を高める武器にもしている。そんな戸上の人となりや卓球との出会いを前後編の2回にわたって紹介する。

東京オリンピックは応援席で観戦

張本智和との決勝となった昨年11月のパリオリンピック選考会。得意のバックハンドレシーブ「チキータ」がさえわたった戸上は、張本を4-1でねじ伏せた。「自分のプレーを貫き通せました」。興奮気味に振り返った後、戸上は安堵(あんど)のため息をついた。

この優勝ポイントが加わったことで、シングルスの日本代表に割り振られる予定の2枠に、張本とともに入ることが事実上決まった。

2022年に始まったパリ選考レースの序盤、戸上は不振に陥り、2023年に入ると極度の体調不良にも苦しめられた。「過酷なレースだった、というのが率直な感想。不安はあったんですけど、ホッとしました」。張本や明治大の先輩にあたる水谷隼が引っ張ってきた近年の日本男子の中で、いつも4、5番手の立場にいた。

昨年12月、海外遠征から帰国した戸上(左)と張本(撮影・鈴木健輔)

2021年の東京オリンピックは、子どもの頃からのライバルで、明治大では同学年の宇田幸矢(4年、大原学園)がリザーブ選手に選ばれた一方、自身は応援席にいた。戸上が注目されるようになったのは、張本に選考会で何度も勝ち、「キラー」と呼ばれるほどの力をつけたからだ。

試合後はアントニオ猪木さんの決めフレーズ

試合後のパフォーマンスも人気だ。

「元気ですか!?」「1、2、3……」

勝利を決めると、客席に向けて叫ぶ。そして右腕を突き上げる。

「ダー!」

プロレスラーのアントニオ猪木さんをまねた決めフレーズ。戸上が照れくさそうにこれをすると、観客はどっと沸く。

Tリーグの試合後、アントニオ猪木さんの決めフレーズで会場を盛り上げた(撮影・鈴木健輔)

プロレス愛のルーツは子どもの頃、故郷の津で通った卓球道場にある。

「隼輔にプロレスを教えたのは山田さんと、私かな」

そう苦笑するのは松生卓球道場の松生幸一さん。山田さんとは、津卓球協会事務局長で、近くで薬局「善快堂」を営む山田高司さんのことだ。

道場は、津の市街地から車で5分ほど。近鉄名古屋線とJR紀勢線の二つの踏切の間に挟まれた場所にある。近くの津市立修成小学校に通学していた戸上は、1年生の時から週6日、道場に通った。

午後3時半ごろ、学校が終わると家よりも近い道場に来て、宿題をする。終わると友達と遊ぶために学童クラブへ。夕方、道場でご飯を食べて、午後7時過ぎから練習。夜10時に帰宅する、という日々を送っていた。

光るものを感じたのは、球さばきだ。「大人では考えられないような角度で打てるんです。頭の上から振ったり、足元からすくったり。そういうセンス、才能がずば抜けていました」。手首が柔らかいことにも目を引いた。いま武器にするチキータにも通じているとみる。

子どもの頃から手首が柔らかく非凡な才能を持っていた(提供・松生幸一さん)

張本の代名詞である「チキータ」だが、松生さんは「隼輔の方がうまいんちゃうか」と言う。「張本君のチキータは鋭い、強い。隼輔は柔らかくて、鋭い。強い球は打てるようになるけど、柔らかい球は持って生まれたもの。養いがたいんです」

そんな才能に対しても、鍛えすぎることはしなかった。

平日3時間ほどの練習時間は、トップ選手をめざして英才教育される選手に比べれば短い。「小さい時だけ強い選手にしてはいけない」という信念が松生さんにあった。締め付けず、年中一緒にいる環境で、戸上は松生さんになついた。松生さんの趣味のプロレスにも興味を持った。

宝物にしている棚橋弘至との写真

松生さんのプロレス好きは母親譲りだという。

カラーテレビが出回り始めた昭和30~40年代、空手チョップの力道山に憧れ、ジャイアント馬場や猪木にもはまった。今の選手も好きだ。

当時テレビでやっていたプロレス番組を善快堂の山田さんが録画していて、練習がない日によく一緒に見せてもらっていた戸上も、はまっていった。「プロレスの興行が三重の体育館であって、隼輔を山田さんが連れていったんです。そう、飯塚高史が出ている試合だったな」

戸上が観戦した頃の飯塚はヒール(悪役)に転向していて、反則や場外乱闘、武器を使った攻撃を繰り出していた。その日も場外乱闘に発展。「隼輔は怖がって、逃げ回ったって。山田さんが探し回ったら、売店の陰に隠れとったってさ」

会場の売店で売り子をしていたのが、いま新日本プロレスの社長になった棚橋弘至だった。一緒に撮ってもらった写真は、戸上の宝物になった。

ヒールの飯塚高史から逃げ回った先、売店にいたのが棚橋弘至だった(提供・松生幸一さん)

それ以来、戸上がプロレスマニアだというのは知っていた。特に新日の内藤哲也やオカダ・カズチカが好きで、棚橋とは昨年、卓球専門誌の対談で再会。表紙を一緒に飾った、と感激していた。

印象は「おとなしい子」自分を奮い立たせるために

ただ、2023年の全日本選手権を制覇した東京体育館で、猪木のパフォーマンスを披露したのを見た松生さんは意外に感じた。

戸上に対する印象は「おとなしい子」。派手なことをするように思えなかったが、最近はこう理解するようになった。「たぶん、自分の勇気を奮い立たせるためのパフォーマンスだろうと思いますよ。優勝インタビューで『自分が日本を引っ張る』とも言ったでしょう。あれも、昔の隼輔だったら考えられんからね」

松生さんは3年前に大病を患い、退職金をつぎ込んで2006年に開いた道場を次男の瞬さんに譲った。「隼輔の活躍を自分の元気にさせてもらって、いまも、こうやって生きていられている」と笑う。

戸上が全日本王者になったことで「日本一の選手を育てる」という目標は達成できた。

「涙が出るくらいうれしかった。親孝行な子ですよ」

かつて通い詰めた道場で松生さん(右)と握手(提供・松生幸一さん)

次の夢もできた。これまで三重県の卓球選手が出られなかったオリンピックの舞台で、活躍する戸上の姿を見たい。

「パリは遠いから、私は無理かもしれんけどね」

松生さんはそう笑い、胸を躍らせながら、夏を待っている。

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