卓球

特集:パリオリンピック・パラリンピック

明治大学・戸上隼輔(下)両親は勧めずとも、才能が開花「考えられない角度で打てる」

南アフリカで開催された世界選手権で戦う明治大の戸上(撮影・鈴木健輔)

明治大学の卓球部は、全日本選手権を4度制覇した松下浩二さんや、東京オリンピック混合ダブルスで金メダルを獲得した水谷隼さんらが輩出した名門だ。戸上隼輔(4年、野田学園)が入部したのは、2020年春だった。

【前編はこちら】明治大学・戸上隼輔(上)「チキータ」武器にパリオリンピックへ、プロレス好きの原点

卓球一家で育った

新型コロナウイルスの感染拡大と重なり、入学式や歓送迎会、寮の説明会はすべて中止になった。母・恵子さん(58)にとって明治大学にまつわる思い出は今のところ、隼輔を東京・西調布の寮の外まで夜中に送り届けたことしかない。

恵子さんはその代わり、仕事を休める日は、できるだけ隼輔の試合を見に行くようにした。LINEもよく送る。体調を気遣う時もあれば、プレーに触れることも。

「嫌やな、こんな親でって思うんですけど」。そう笑いつつ、やっぱり、少しでも隼輔を見ていたいのが本音だ。何しろ、恵子さんが隼輔と一緒に暮らせたのは中学2年の夏までだった。

隼輔は卓球一家で育った。

父の義春さん(58)は高校総体のダブルス王者で、和歌山の実業団でならした元卓球選手。転勤が多い家族のもとで育った恵子さんも、和歌山で同じ会社の卓球部に所属していた時期がある。結婚し、授かった3人の男の子は全員、卓球を始めた。親の勧めではない。

卓球一家で育ったが、始めたきっかけは親の勧めではなかった(撮影・鈴木健輔)

小学校低学年から全国大会上位の常連

戸上家が引っ越しを繰り返し、三重県津市に定着したのは隼輔が保育園の年長だった年の秋だった。12歳上の長男が友達をつくるために「卓球がしたい」と言い、9歳上の次男と、隼輔も続いた。「卓球をさせるつもりはなかったんですよ。オフシーズンはないし、大会が多いので」と恵子さん。後に長男に聞いた話では、以前、遊園地で遊んだ卓球の楽しさを覚えていたのだという。

次男と隼輔は地元の実業団選手だった松生幸一さんの道場に通い出した。しかし恵子さんは、卓球にのめり込ませるつもりはなかった。

自宅に卓球台を欲しがる隼輔に、「これから食事も卓球台ですることになるけどいい?」と言って、我慢させた。小学校高学年の隼輔が友達と一緒に「お笑いやろうかな」と口にした時も、「いいじゃん!」と背中を押した。

子どもの頃の戸上。当時から球の扱いには光るものがあった(提供・松生幸一さん)

ただ、隼輔の卓球センスは非凡だったようだ。松生さんは「球の扱いに光るものがあった」と言う。

「大人って、『こう』と決まった角度でしか球を打てない。でも、隼輔は頭の上から、下がった体勢から、大人では考えられない角度で球を打てる。そういう才能が飛び抜けていました」

松生道場では、複数の球で練習する「多球練習」で反射神経を養った。卓球台を2台くっつけてプレーする練習で、フットワークを鍛えた。

小学校低学年から全国大会で上位進出の常連に。高学年になると、東海地方の強豪中学から声がかかるようになった。有望なジュニア世代の選手をトップ選手へと育てる、日本オリンピック委員会(JOC)の「エリートアカデミー」も選択肢の一つに入った。

このときは「卓球を楽しみたい」という隼輔の考えで地元の公立中に進んだものの、転機はまもなく訪れた。

当時鍛えた反射神経とフットワークは現在にも生きている(撮影・鈴木健輔)

「レベルの高いところで」と野田学園に転校

中学1年で出た全国中学校体育大会で、序盤で敗退した。「このままでは成長できない」「レベルの高いところでやりたい」と、隼輔に焦りと向上心が芽生えた。

小学校の時からライバルだった愛知県出身の久世雄登(現・同志社大4年)らが進んでいた山口県の強豪で、中高一貫の野田学園へ転校。寮生活が始まった。電話はほとんどできず、親子で会えるのは、試合の遠征先で、数時間程度だった。「寂しかったですよ」と恵子さん。思えば、隼輔と過ごす時間は、同居していた頃も多くなかった。

隼輔は学校が終われば直接、松生卓球道場へ行き、夜まで帰ってこない。

恵子さん自身も仕事をしていて、授業参観にもあまり行けなかった。長男や次男の習い事の送り迎えで、家にいられる時間は限られていた。

離れて暮らすようになって、もうすぐ10年。最近、隼輔を見ていて、新たに気づくことがある。

たとえば五輪選考レース中の昨春、ある国際大会でのこと。映像で見ていると、試合でいつもは出ている声が、出ていない。「途中までは出ていたのに、ピタッと出なくなったんです」と恵子さん。連絡を取ると、胃腸の病気だった。

重圧がかかると、気分が悪くなる。「聞いたら『昔からだ』って言っていました。そういえば、長男や次男に比べて、隼輔は食べる量も少なかった気がします」

このときは、めまいや体力減退の症状が重かった。薬を飲みながら、それでも選考ポイントを稼ぐために試合に出続けた。隼輔はこの苦境を乗り切った。

昨年11月の第6回選考大会で優勝。1年半以上続いた選考レースを戦い抜き、初めてのオリンピック出場を確実にした。正式発表はまだだが、恵子さんは「お疲れ様」とねぎらいの言葉をかけた。

1年半以上続いた代表選考レースを戦い抜いた(撮影・鈴木健輔)

全日本選手権を経て、いよいよパリへ

隼輔は明治大のユニホームを着て、26日から登場する全日本選手権でシングルス3連覇を狙い、2月には卓球部の寮を出る予定だ。

夏にはいよいよパリに向かう。

「私は何もできなかったけど、本当に、周りの方に恵まれてここまでこられました。感謝をして、元気にパリへ行ってほしいです」

戸上家は飛行機を予約した。恵子さんにとっては新婚旅行以来、2度目の海外。飛行機に乗るのも人生で3度目になるという。

年始の書き初めには「死に物狂い」としたためた(撮影・鈴木健輔)

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