選手をやめ、立命の躍進支えた弓削圭介
立命館大学男子陸上部の今年の駅伝を振り返ると、出雲駅伝では関西勢9年ぶりとなる7位入賞、全日本大学駅伝では立命館新記録、関西駅伝と京都駅伝では優勝と、いい結果を残した。全国にその名を響かせ、新たな道を切り開いたシーズンと言えるだろう。この大躍進を支えた一人が、マネージャーの弓削圭介(ゆげ、4年、宮崎大宮)だ。
1回生が先輩の目標を否定
弓削は小学校ではソフトボール、中学校では野球をしていた。本格的に陸上を始めたのは、中3で野球部を引退したあとだった。進学校の宮崎大宮高では、ほぼ毎日7限まで授業があったため、陸上の練習は1時間半程度。圧倒的に練習量では負けていた。それでも弓削は県大会で入賞を果たし、九州総体や九州選手権にも出場。着々と力をつけていった。1500mでは中学のときから23秒も記録を伸ばした。
大学でも陸上を続けるのを前提に、受験校を決め始めた。実力からして関東よりも関西を選んだ。その中でも立命館は、あらゆるスポーツが全国レベルで強いし、スポーツ研究科学部でスポーツを極められると考えた。また「規模の大きな大学で自分の価値観を広げなさい」という高校の教師からの言葉に後押しされ、知り合いのいない立命館で一から頑張りたいと思い、受験を決めた。
弓削は立命館で新たな一歩を踏み出したが、入部早々に力の差を感じた。それでも必死に練習に取り組んだ。最初の駅伝シーズンが終わり、部全体で来シーズンの目標を立てるミーティングがあった。その目標は「出雲と全日本での入賞、関西と京都での優勝」だった。しかし、その年の結果から考えて、1年後の目標達成は相当に厳しい状況と考えられた。そのミーティングで弓削は、1回生ながらも「いま自分たちが達成できる目標を立てるべきです。時間をかけてステップアップして、自分たちの代ではその目標を必ず達成します」と強気に発言した。周囲の反感を買うのを覚悟したうえで、チームのためを思って発言した。そのときから弓削は、4回生になったらあの目標を本気で達成してやると思い続けてきた。
3回生になる前の春合宿、弓削は自分を追い込みすぎて陸上が苦しくなった。一度陸上から離れ、自分と向き合う時間をつくった。休養中、高尾憲司コーチから「ここでやめたらこの先一生、人生で逃げるぞ。得意なことで逃げてたら、嫌なことなんてもちろん続かないぞ」と叱咤激励を受けた。一回生で大口をたたいておいて、目標も達成しないで陸上部を抜けるのは先輩に会わせる顔がないという思いも強く、陸上部に戻った。
目標達成のため、裏方に
弓削は3回生の秋からマネージャーとしてチームを支えることになった。自分にはまだランナーとしての可能性はあると感じていたが、1回生で自分がした発言の責任をまっとうし、実現するために、そうした。4回生が引退して最初のミーティング、もちろん目標は「出雲と全日本での入賞、関西と京都での優勝」だ。最上級生になり、みんなで目標を達成するべく熱を入れて取り組んだ。厳しい言葉もたくさん投げかけた。弓削自身、シーズンが始まったころは目指したレベルに達していないと感じていた。不安や焦り、プレッシャーがありながらも「やるしかない」と自分を信じ、チームを鼓舞し続けた。
迎えた今年10月の出雲。立命館は関東勢の壁を破り、7位入賞を果たした。全日本では入賞とはならなかったが、関西駅伝では出雲で走れなかった主将の小岩慎治(4年、智弁学園)がアンカーとして走り、区間新記録で2年ぶりの優勝を果たした。京都駅伝では4回生のみで襷(たすき)をつなぎ、4年間の集大成を完全優勝で飾った。弓削は「自分がいままでやってきたこと、頑張ってきたことは間違ってなかった。努力が報われてよかった」と語った。
弓削はこの4年間で本気でぶつかり合い、一つの目標に向けて頑張る仲間の大切さを学んだ。駅伝では大切な仲間と戦っていると感じられた。個々の力では関東勢には及ばなくても、全員で力を合わせれば関東の大学を倒せることも、今年の立命館は証明した。弓削自身、最後まで何かをやりきる大切さも強烈に感じられた。
これからは社会に出てまた新たなステージでの生活が始まる。陸上で学んだこと、立命館大学男子陸上部で得たことを生かし、さらなる活躍を期待したい。