涙、涙の初マラソン 大阪芸大・志村野々花
志村は身長150cm、体重38kgの小さな体で大阪の街を駆け抜けた。地元の横浜市で成人式に出てきたばかりの大学2回生。初マラソンのゴールは笑顔だったが、まもなく情けなさがこみ上げてきて、涙が止まらなくなった。着替えてチームメートたちの前であいさつすると、また涙が流れた。レース後の駅伝部の「行事」がひとしきり終わると、私は志村のところに行って声をかけた。涙目のまま、取材が始まった。
痛恨の給水ミス
私は最初に初マラソンの結果について感じていることを尋ねた。志村はまた涙を流した。それでも必死で返してくれた。
「年末に富士山駅伝があって、そのあとマラソンに向けては30kmを一回やっただけでした。私は距離に不安もなくて、長いほど好きなので、絶対に2時間40分は切れる、35分だって、という謎の自信もあっただけに、44分という結果はショックすぎました。自分のマラソンに対する意識が甘くて、ほかの選手のみなさんに失礼だったと思います」
走ったペースについて問うと、モコモコの手袋を外し、左手の甲に書いた5kmごとの目標ラップタイムを見ながら話した。中瀬洋一監督とは「1kmを3分40秒でどこまで押せるか」という話をしていたという。「なのに自分は『もっと速く走りたい』なんて思っちゃって、最初は3分32秒ぐらいで入ったんです。勝手に速いペースで入って、それもバテにつながったなと思います。初マラソンなのに、何やってんだろう」。また涙。傍(はた)から見ると、大男(私)が小柄な女性ランナーに難癖をつけ、泣かせているようにしか見えなかったと思う。
最大の誤算は10kmの給水にあったそうだ。志村は外国人選手と実業団の選手と3人の集団を形成して走っていた。1kmが3分35~40秒のペースでちょうどよかったし、「向かい風だから絶対に一人ではいくな」という指示を受けていたので、志村はこのままレースを進めたかった。
しかし、ここで初マラソンの洗礼を受ける。志村は、ほかの人のスペシャルドリンクを取ってしまったのだ。すぐに「あ、違う!! 」と思って台のところまで戻り、自分のものを取ったときには、ペースを上げた二人に置いていかれてしまった。「追いつかないのにペースを上げてしまって、ムダに疲れて。10kmで一人になっちゃって、『何やってんだろう』『やっちゃった』みたいな気持ちになってしまいました」。涙が流れた。
「マラソンは本当に何が起こるか分からないんで、ほんとに準備不足でした。気持ちの面でも準備が足りてなかったです。今回の経験、失敗、悔しさも全部、来年リベンジします」
唯一、勧誘してくれた中瀬監督
競技を始めたのは高校からと、遅めだ。もともと走るのは好きで、中学生になるとき陸上部か吹奏楽部で悩んでいた。なのに突然「バスケしたい」と思ってバスケ部へ。あるとき学校のマラソン大会で4kmを走った。とくに必死でもなく楽しく走ったら4位だった。「本気でやったら長距離なら負けないかもと思って、高校からやってみようと思いました」。横浜市内の自宅近くで陸上の強い高校を探したら、学力的にもちょうどいい学校が見つかり、その県立新栄高校へ進んだ。入学し、念願の陸上部に入ってみて驚いた。強かったのは短距離で、それも志村の生まれたころが「黄金期」だった。長距離はメンバーも少なく、ほとんど一人で練習する日々だった。
それでも朝5時半に起き、自分で弁当をつくって、高校まで8kmの道のりを自転車でガンダ(全力でダッシュ)した。30分かかった。電車でも通えるが、志村には性格的な問題があった。ギリギリにしか家を出られないのだ。すると、乗りたい電車には必ず遅れる。そうなったときに、考えたそうだ。「電車は自分がどれだけ急いでても焦ってくれないけど、自転車は頑張って全力でこいだら間に合う」と。だから3年間、雨の日も風の日も自転車でガンダしたのだという。なかなかに面白い人だ。
高校を出てからもっとしっかり走ってみたいと思っても、実業団から声がかかるわけもなく、大学から推薦の話もない。大学に進んで市民ランナーでもいいか、とあきらめかけていた。「そしたら、監督が声をかけてくれて……」。思い出して、志村はまたもや泣いた。高3の8月、私立の大阪芸大女子駅伝部の中瀬監督から「一緒に走ってみないか」と勧誘された。推薦の最後の一枠だった。思わず「はい!! 」と言ったが、「大阪? 遠いです」「なんで芸術大学? 私は小学校の教員免許が取りたいんです」というやりとりになった。
たしかに大阪芸大と駅伝は結びつかない。話は08年にさかのぼる。かつて実業団で高橋尚子や土佐礼子を指導した中瀬氏が監督となり、大阪芸大に女子駅伝部ができたのだ。そして12年に全日本女子駅伝に初出場。地道に強化を続け、ついに昨年の全日本で初の8位入賞を果たした。そんな歴史がある。また大阪芸大には初等芸術教育学科があり、教員免許が取得できるとの説明を受けた。志村は「これはもう運命だ」と大阪への進学を決めた。
競り合う練習で磨かれた原石
大学で初めて人と競り合う練習が毎日できるようになった。「ラストで競り合ったり、一人じゃ絶対無理なペースでも、先輩が引っ張ってくれるから楽に感じたりして。先輩に食らいついてるうちにベストが出て。集団の力ってのはすごいなと思いました。ずっと一人でやってたからこそ、余計に強い思いました」。5000mのベストは16分25秒、10000mは33分46秒だ。高校時代は届かなかった全国の舞台に何度も立ち、「世界が変わりました」と笑う。今年の関西インカレの10000mでは、キャプテンと副キャプテンと志村の3人で表彰台を独占するのが目標だという。
将来的には日の丸をつけてマラソンを走る夢がある。「高校のときに毎週部活ノートを提出してたんですけど、先生が『いつか日本代表のユニフォームを着て、マラソンを走ってる姿が見たい』って書いてくれたんです。監督はそういう選手を育ててこられた方なので、いまはそんなこと言い出せないですけど、しっかり力をつけて、4年のときには日本のトップレベルになるために教えてもらえるようにしたいです」
女子駅伝部は全員で20人。志村の学年は5人だ。毎月誕生日会があり、アイスを買ってきてみんなで食べる。福岡へ遠征に行くと、中瀬監督が博多ラーメンをごちそうしてくれる。そんなあったかさが、志村はたまらなく好きなのだという。「ほんとにこの駅伝部に来てよかったです」。今度はうれし涙が、少し流れた。
寮では自炊している。志村が最も頻繁につくるのが、鶏の蒸し焼きだ。「胸肉と野菜を切って、オリーブオイルかけて、フライパンで蒸し焼きです」。また、ゆで卵と牛乳が大好きで、幼いころからずっと摂り続けている。「牛乳飲んでも背は伸びなかったんですけど、骨はめっちゃ丈夫なんです。けがはまったくしないです」と、誇らしげに語った。
初マラソンのレース直後、あの増田明美さんが彼女に駆け寄った。「おつかれさま、長旅だったね」と声をかけられたそうだ。実は増田さんは大阪芸大の教授でもあり、女子駅伝部とも交流がある。志村はいつも増田さんに言われるそうだ。「あなたの顔が、私の若いころにそっくりなのよぉ~」と。「だから私も、失礼なんですけど、増田さんみたいにちっちゃくても強い選手になりたいです」。取材の最後は、満面の笑みになってくれた。ホッとした。
志村の受け答えには、ちらほら関西弁のイントネーションが出始めていた。横浜出身の彼女がもっと関西っぽさに染まってきたころ、どんなランナーになっているのか。楽しみにしたい。