アメフト

関学アメフト渡辺俊太、2学部卒業の「超」文武両道

卒業式のあと、2学部の学位記を見せる渡辺

雲ひとつない晴天のもと、「文武両道」の一つ上をいった男が卒業式を迎えた。関西学院大学アメリカンフットボール部「ファイターズ」の一員で、関学高等部のコーチを務めた渡辺俊太(4年、関西学院)。彼は318日、経済学部と国際学部を同時に卒業した。アメフト部員の2学部卒業は史上初だ。

 1回生の夏に絶たれた選手生命

渡辺は関学中学部でアメフトを始め、高校3年時には日本一にも輝いた。大学ではあこがれのファイターズで日本一を目指すはずだった。だが1回生の夏に重度のヘルニアを患い、選手生命を絶たれてしまった。授業中も座っていられないぐらいの痛みがあった。同じWR(ワイドレシーバー)で同期の松井理己(4年、市立西宮)が試合で活躍しているのを見ると、「俺は何をしてるんだろう」と、ふがいなさを覚えた。

2回生になる前のシーズンオフ。ほかの大学へ編入することさえ考えるほど、どん底にいた。そのとき相談に乗ってくれたのが、2学年上の先輩だった。ファイターズは、学生スタッフの中から関学中学部や高等部へ専任コーチを出している。その先輩が高等部のコーチとして誇りを持って日々をすごしているところに、渡辺は「かっこいいなと思えた」という。高等部の部員80人の思いを背負って活動できることに魅力を感じ、高等部コーチへの転向を決めた。

今年1月のライスボウルのあと、4回生で記念撮影。後列左から2人目が渡辺

それと同時に決めたのが「マルチプル・ディグリー制度」の活用だった。最短4年間で2学部の学位を取得できる制度で、関学が日本で初めて採用した。渡辺は経済のダイナミズムにひかれ、経済学部に入学した。高等部コーチへの転向を機に、学業での挑戦も決めた。「経済を実行に移していくのは政治だし、国際政治学を学びたい」と思い、国際学部を2学部目に選んだ。高等部の練習が夕方にあるため、授業は午後3時に終わる3限までに詰め込んだ。渡辺の時間割を見せてもらうと、上半分がびっしりで、下半分はガラ空き。何ともきれいな形をしていた。

渡辺に、どんなふうにテストを乗りきっていたのか聞いた。「よく聞かれるんですけど、これを言うと嫌味に思われるんですよね()。徹夜なんか嫌いで、すぐ寝てしまうんですよ。授業で要点をつまむので、テストは苦手じゃないです。寝て、頭の整理をしてます()」。3回生では2学部のゼミを掛け持ちして、卒業時には190単位近くを取得した。

 コーチとして高校生に寄り添った

高等部のコーチとしても、やりきった。とくに気にかけていた選手がいた。高2からずっとエースWRだった河原林佑太(3)だ。筋力トレーニングの数値は大学生顔負けの努力家。だが、リーダーシップには物足りなさがあった。そんな河原林がWRのパートリーダーに立候補した。高等部時代に同じ立場を経験した渡辺は「こいつ、覚悟決めたな」と感じ、見守った。 

愛弟子である河原林(左)とのツーショット

春の間、WRのパートがまとまっていなかった。本番の秋のシーズンを目前にした8月、珍しく河原林から「渡辺さん、いいですか? 」と言ってきた。「パートリーダーとしても、選手としても伸びないんです」。初めて悩みを打ち明けてきた。渡辺は「ここまでやってきたんや。負ける覚悟も必要。プレッシャーに打ち勝てたときに、えげつないプレーができる」と寄り添った。最後の全国大会。河原林がタッチダウンを決めたが、初戦敗退となった。それでも「シーズンを通して一回りも二回りも成長してくれた。高校生の人間的成長に関われてよかった」と前向きに振り返る。

4月から渡辺は大手商社で働く。コーチ業と商社の仕事が似ていると感じたのが決め手だったそうだ。「本当の意味で組織を引っ張るリーダーになりたいです。不安定な世の中ですけど、自分のアイデアや付加価値で勝負できればと思います」。まずは関西を離れ、東京へ。そして高校生のコーチとしての経験と2学部での学びを糧に、渡辺俊太は世界へ羽ばたく。

今年2月の甲子園ボウル祝勝会で壇上に立った渡辺(撮影・松嵜未来)

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