関学ファイターズを追いかけた3years.
1月3日、光藤ファイターズが終わった。社会人王者の富士通に大敗。だが、東京ドームの一塁側、青のスタンドから万雷の拍手が送られた。光藤ファイターズの終わりは、3年に渡って青き戦士を追いかけた私に、ゲーム取材の終わりを告げた。
アメフト部の同級生を応援したい
散々アメフトの記事を書いてきたが、私は経験者ではない。兵庫県姫路市で生まれ育ち、中学受験で関学の提携校である啓明学院に入学。ここでアメフトに出会った。勧誘を受け、アメフト部の体験会に。だ円球を持たせてもらい、パスも受けた。でも、幼いころから続けていた水泳部に入った。入学してすぐ、学校の行事で「KGボウル」という大学の試合を観戦。ファイターズとの出会いもそのときだが、ルールも分からず、ただ退屈で友だちとしゃべっていた。
アメフトのとりこになったのは、だいぶあとになってからだ。高3の夏に水泳部を引退してから、アメフト部の試合を見にいくようになった。同級生の最後のシーズンは、ほぼ全試合見に行った。まったく知らなかったルールにも詳しくなった。知れば知るほど、奥が深く、はまった。
2015年秋の関西大会準決勝、立命館守山戦。あと2勝で高校日本一を決めるクリスマスボウルへ進める。その日も王子スタジアムに行った。前半を終え、相手に12点のリードを許した。第4Qに入っても、11点差があった。ここから同級生たちは24-21と逆転。勝ったと思った。しかし、残り15秒でパントブロックからタッチダウン(TD)され、ひっくり返された。みんな、泣き崩れた。
「あんなに頑張ってたのに、日本一に届かんのか」。昼休みや、夜も遅くまで練習や相手の分析をしていたのを知っていた。すごいと思った。そして、試合終盤の粘りに心を打たれた。啓明の選手のほとんどは、大学でも競技を続ける。「この人たちを応援したい」。心の底から思った。
スタッフとしてファイターズに入ろうかと思ったが、「別の方法で支える方が、自分には向いてるんじゃないか」と感じて「関学スポーツ」に入った。5月の体験入部の期間が終わり、6月に正式入部。担当競技の希望調査があった。10競技書く中で、アメフトを最初に書いた。晴れて8月からアメフトの担当になった。アメフトは言うまでもなく関学体育会のお家芸であり、最も注目される。「日本一の組織に見合う日本一の広報をする」。強く誓い、ファイターズを追いかける3years.が始まった。
朝までファイターズ愛を語った
初の取材は、秋リーグ戦開幕直前の記者会見。学生記者、それもひよっこの私は、ホテルの会見場にいた大勢の新聞記者たちの雰囲気に圧倒された。初のゲーム取材もよく覚えている。第2節の甲南大戦。QBサックを決めた4回生の大きなDL(ディフェンスライン)を取材した。質問を用意していたのに、緊張して言葉に詰まってしまった。すでに引退した4回生の先輩記者が隣にいてくれたのだが、見るに見かねて「昨年はけがだったよね」「マウスピースは歯医者のお父さんに作ってもらったの? 」と主導権を奪われた。次々に引き出しを開けるように出てくる質問。巧みな取材術の前に、悔しさを味わった。その一方で、あこがれた。
1回生のときから恵まれていた。2年ぶりに関西を制し、学生日本一。年末年始はライスボウルに向けての記事執筆に追われた。甲子園ボウルの活躍記事と、ライスボウルの試合展望を任されていた。年末から準備していたが、校正を担当するチェック長が通してくれない。「何でやねん」。悔しくて、ふてくされた。アメフト担当の先輩たちとも口を聞かなかった。
ライスボウルの日、東京ドームに着くと、本気で日本一を目指してきた選手たちの顔が浮かんだ。「自分は何もできなかった。この人たちにカメラを向ける資格がない」。そう思った。この日はカメラを持たせてもらう予定だったが、拒んだ。その夜、宿泊したホテルで、この日限りでアメフト担当を引退する先輩に謝った。すると、1回生の自分に温かい言葉をくれた。泣いた。目を赤くしながら、ファイターズへの愛を語り合った。気がつけば朝になっていた。
この日から、より強い気持ちで「伝える」ことに向き合った。1回生のころ、アメフト担当の記事で多かったのは、けがからの復活物語。それに、同じようなコメントばかり書いていた。別の競技担当の部員からは「アメフト部は機械なん? 」と言われた。「関学スポーツ」のライバルとも言えるスポーツ紙や一般紙の記者も多いアメフトの取材。先輩からは「お前にしか書けない話って何なん? 」と突きつけられた。
2回生になり、大学内で歩く選手たちを目で追いかけ、試合の取材ではヘルメットやスパイクにまで「何か変わったところはないか」と目を凝らした。「人の心に響く記事を書きたい」と思い、「父と目指す日本一」やライバル物語など、さまざまな記事を紡いだ。このシーズンは甲子園ボウルで日大に敗れた。「伝える」ことで、ファイターズを日本一にすることはできなかった。
二度と書かなかった「悪質タックル」
「関学スポーツ」は3回生で活動が終わる。私にとって、すべてを出し切る最後の年が始まった。編集長の立場にも就いた。春の山場と考えていた5月6日、日大との定期戦。予期せぬ出来事が起こった。いわゆる「悪質タックル問題」だ。東京の試合会場に私はいた。カメラを持ち、ボールを追っていたので問題の反則は見ていない。退場処分を受け、選手同士の衝突もあり、緊迫した現場。同じ選手が3度立て続けに反則を犯したことに違和感を感じた。
帰りの新幹線で記事を書きながら、SNSで日大監督のおかしな発言や、反則の動画をチェックした。例の「タックル」を見て、目を疑った。その5カ月前、27年ぶりに甲子園ボウルで勝ち、よみがえった不死鳥。敵ながら鮮やかな復活劇に、感動すら覚えた。だからこそ、悲しかった。加熱する報道。「大好きなアメフトがこんな形で有名になるなんて……」。私たちの「関学スポーツ」は、あくまで選手の活躍や物語を伝えることが使命。活躍以外のことを取り上げるのには葛藤があった。その一方で、現場にいた数少ない記者として何もできない悔しさに襲われた。
そんな私を変えたのは、アメフト担当を引退した4回生の言葉だった。「現場にいた人間だからこそ、伝えられることがあるんじゃないか」。その言葉を聞き、すぐに迷いは消えた。記者会見に足を運び、そのまま伝えた。100人もの報道陣が集まった大広間での記者会見。「自分の口で、自分にしか聞けないことを聞きたい」。そう思い、プロの記者に混じって質問し、報じた。
どんどん大きな社会問題となり、大学のガバナンスの問題などへ発展。大学スポーツに向けられた好奇な目線に対し、本質からズレてきていると感じた。軌道修正しないといけないと思い、原点に立ち戻った。「選手の活躍やファイターズのすごさ、アメフトの魅力を伝えたい」。すぐに行動に移した。鳥内秀晃監督に指導理念やアメフトの魅力を語ってもらうインタビューを申し込み、「タックル」を受けたQB奥野耕世(2年、関西学院)が復帰した5月27日の関大戦での活躍を記事にした。鳥内監督は快く取材を受けてくださり、醍醐味を語ってくれた。
奥野の記事は、彼のお父さんにも取材し、大学2回生の揺れ動く心情を書いた。そのあとも奥野の記事を何度も書いたが、私は二度と「悪質タックル」には触れなかった。若きエースの純粋なすごさを知ってほしい。それが自分のポリシーとなり、書くべきことだと考えた。3年間の中で一番と言えるぐらい取材を重ね、言葉も丁寧に選んだ。「タックル問題」は学生記者として、あるべき姿を考えさせられた大きな出来事だった。
親友のキックに祈り
学生記者として最後のシーズンが始まった。10月末には、野球やテニスなど八つあった担当も、残る取材対象はアメフトだけになっていた。京大戦でランプレーを通された末に辛勝し、関大戦で70年ぶりに引き分け。苦しいリーグ戦になった。最終の立命戦を前に、ファイターズの4回生同様に、私も引退を覚悟した。だが、選手は逆境をはね返し、2年ぶりの関西制覇を成し遂げた。そして甲子園ボウル出場を決める立命との西日本代表決定戦。第3Qに入って立命に13点差をつけられた。サイドラインにいた一般紙の記者からは「これは関学が負けるな」という声も聞こえた。でも自分は選手たちを最後まで信じた。
17-19で迎えた試合残り2秒。取材を通じて仲よくなったキッカーの安藤亘祐(3年、関西学院)が逆転のFG(フィールドゴール)を狙い、フィールドに入った。彼が、この1年が勝負という強い思いを持ち、キックに取り組んでいたことを知っていた。「絶対に決めてくれる」。そっと、両手を組んで祈った。FGは決まり、逆転勝利。涙があふれ、視界不良になる中でシャッターを切り続けた。人目をはばからず、恥ずかしいぐらいに大泣きした。1点差の大逆転劇に「これがファイターズ。これがフットボールのおもしろさや」と、心で叫んだ。いろいろな思いがあったが、何よりもまだ、自分がファイターズを追うことができる喜びが最も大きかった。
最後の東京ドーム、すべて目に焼き付けた
12月16日、ブルーのジャケットを身にまとい、甲子園のフィールドに立った。予想されていた雨もそこまで激しく降らなかった。早稲田との戦いも快勝し、2年ぶりに学生日本一に返り咲いた。1回生の時はスタンドから見つめていたが、この日は約200人の選手の前で集合写真を撮った。喜びにあふれ、笑顔が絶えない選手たち。その真ん前のど真ん中で写真を撮れたことが、たまらなくうれしかった。
年が明けて1月3日の朝。東京の空は青く澄み渡っていた。年を越して取材ができることに、感謝の気持ちでいっぱいだった。試合前に明治神宮へ向かった。アメフト担当の5人で絵馬に願いを込めた。「ファイターズがライスボウルで富士通に勝って全員で日本一になる! 」。チームが大事にしてきた「全員で勝つ」にかけて、5人が一文ずつ書いた。2年前の自分とはまったく違う気持ちで、東京ドームに乗り込んだ。
この日はどんな瞬間も逃さないと決めていた。試合前の練習から、チームのお祈りの時間、入場前の興奮した様子、熱のこもった全プレー、サイドラインから叫ぶ控えの選手たち。すべてを目で追い、空気を感じ、耳を傾けた。2年前と違い、カメラも構えた。大差がついたが、選手たちは必死でボールを前に進め、大きな外国人選手相手に体を張って止めた。負傷退場した選手も多く、心配になり目をふさぎたくもなったし、理不尽な対戦だなとも思った。それでも最後まで正攻法で、真っ向勝負で戦う姿勢に感動した。すべてをこの目に焼き付けた。
3年間でアメフトの取材ノートは22冊にもなっていた。選手や監督、コーチやOBなどたくさんの方の言葉に耳を傾けてきた。最後の取材が終わり、「いままでありがとう」と多くの選手が言ってくれた。だけど、お礼を言うのは自分の方だ。ファイターズを誰よりも近くで追いかけてきた3年間。たくさんの感動をもらい、学びの連続だった。取材相手からの「ありがとう」の言葉は、何よりの励みとなった。そして夢をもらい、背中を後押ししてくれた。ファイターズがあったから、いまの自分がある。はっきり言える。
泥臭く、がむしゃらに「伝える」ことに向き合った。
「日本一の組織に見合う日本一の広報」になっていただろうか?
ファイターズを一番近くで追いかけた私の3years.が終わった。
最後に言いたい。
ファイターズありがとう。
そして、これからもファイターズを追い続ける一人でありたい。