理想と現実、もがいたエース 関西学院大学WR松井理己
85番が泣いた。ライスボウルの試合残り45秒、関学がオンサイドキックを成功させて手にした攻撃シリーズが始まる。残り4秒からのラストプレーはタッチダウン(TD)を狙い、エースWR松井理己(りき、4年、市西宮)へのパス。松井は相手DBとの競り合いに負け、ボールを捕れなかった。「ライスボウルでTDを取りたかったけど、取れなかった。ショックが大きいです」。試合後、同じポジションの同期や後輩たちを前にすると、涙が止まらなくなった。
大村コーチからのダメ出し
「とにかく活躍したい」。学生として最後の試合となるライスボウルへの気持ちは、誰にも負けなかった。試合前日の宿舎でのミーティング。「京大戦から出てるけど、活躍できてない。TDも取れてない。大村コーチ(アシスタントヘッドコーチ)が勝負どころで自分へのパスをコールしてくれるから、決めきる」。チームメートを前に誓った。最後のチャンスで有言実行できなかったから、悔しさはさらに大きくなった。
3回生だった一昨年の甲子園ボウル。試合開始直後、オフェンスの2プレー目で負傷退場。診断は右ひざの前十字靭帯断裂と半月板損傷で全治8カ月だった。甲子園で日大に負けた瞬間から、松井たちのラストシーズンが始まった。2017年12月28日の手術を前に、新4回生で開いたグループミーティング。新たな幹部を決めるのが目的だった。周囲からキャプテン候補と期待されていた松井。「自分が幹部をやるんかな」と、何となく思っていた。だが、大村コーチに言われた言葉がグサッと胸に突き刺さった。「お前がリーダーをやろうと思ってるんやったら、それは厳しいな。お前はまだ、ただ楽しくアメフトしてるだけや」。正直、落ち込んだ。ひざの手術を受け、2週間の入院生活が始まった。
年末年始は西宮市内の病院で過ごした。病院のテレビは衛星放送が映らず、ライスボウルは見られなかった。「自分のチームのことを強く考えてました」と振り返る。大村コーチの言葉を受け、何もせずにはいられなかった。病室で帝京大ラグビー部の岩出雅之監督の著書やリーダー論についての本を読んだ。同期のQB光藤航哉(同志社国際)は主将に、WR尾崎祐真(豊中)は副将に立候補するつもりだというのを聞き、「WRのパートリーダーになろう」と決意。6人いるワイドユニットを見渡し、「試合経験がたくさんあって、いろんなことを伝えられるのは自分しかいない」と考えた。
一人ひとりと向き合うことを重視した。練習ができない分、外からアドバイスを送り続けた。とくにRBから転向してきた鈴木海斗(2年、横浜南陵)へは付きっきりで指導。レシーバーの基本に始まり、細かい戦術まで、伝えられるすべてを教えた。
夏合宿から練習に復帰した。だが、合流早々からミスを連発。けがの前から体重は5kg減り、持ち味のスピードは落ちていた。リーグ戦第5節の京大戦前から実戦練習にも入り、戦列に復帰した。「タックルが怖い」と、大学での初戦と同じような気持ちだったという。それでも徐々に「活躍したい」という思いが強くなった。甲子園ボウルで同期のWR小田快人(近江)に、いつもの軽い調子で「お、戻ってきたな」と言われた。試合勘も戻り、ロングパスも飛んでくるようになった。今シーズンはTDはなかったものの、ライスボウルで4回のキャッチで計76ydを獲得。「けがで動けない時期もあったのに、1枚目で出させてもらった。仲間も何も言わずについてきてくれた」と感謝を口にした。
サッカー部の主将は高校からの親友
親友の頑張りが、大学4年間の支えの一つとなった。同じ市立西宮高校から関学へ進んだサッカー部の主将、FW藤原樹(ふじはら・たつき)。松井は高3のとき、サッカー部の試合を観戦に行った。藤原は主将としてゴールを決めた。「何気なく付き合ってた友だちが試合で活躍する姿を見て、『こいつ、頑張ってるな』っていうのが、すごく伝わってきたんです」。その試合がきっかけで、「大学でもアメフトを頑張ろう」と決めた。
大学1回生のときの京大戦でデビューして以来、TDを量産。藤原も松井の活躍に刺激を受け、一般入学組ながらCチームからAチームにはい上がった。そして「ともに戦う人の原動力であり続ける」という目標を掲げ、主将としてチームを率いた。昨年6月にサッカー部が天皇杯でG大阪を撃破。「すごいな。僕らもライスボウルで社会人を倒したい」。打倒社会人への気持ちが強まる原動力となった。ちなみに藤原はすでに4years.デビューを果たしている(「たたき上げの主将『どうしても日本一』 関学・藤原樹」より)。
松井が1回生のときのリーグ戦開幕前の記者会見で、辛口で有名な鳥内秀晃監督が言った。「1年の松井は関学史上最高のWRになれる」。極めて稀な発言だった。最後に松井に聞いてみた。「関学史上最高のWRになれましたか? 」と。85番の表情がサッと曇った。
「やめてほしかったです。監督がなぜあんなこと言ったのか、いまでも分からない。可能性があっただけで、僕はなれなかったと思う。なりたい気持ちはありました。ライスボウルでTDを取れてたら、なれてたのかもしれない。この1年は本当に苦しかった。ずっと、その言葉が自分にまとわりついてました」。4年間追い続けた「史上最高のレシーバー」像。それは甲子園での大けがによって遠のいた。それでも監督の過去の発言は、ことあるごとに自分の枕詞になる。何より、自分の胸に刻まれている。理想と現実の間で、松井はもがき、苦しんでいたのだ。
卒業後はライスボウルで対戦した富士通フロンティアーズでアメフトを続ける。「同級生や親戚に『まだやってるんや』と思ってもらいたい。原動力や元気を与えられる人になりたいです」。そして誓った。「関学は社会人でアメフトを続ける選手が少ないので、僕を見て増えてほしいと思います。ライスボウルで関学と戦って、しっかり出てパスを捕りたいです」
4年間身にまとった青色のユニホームを脱ぐときが来た。でも、松井理己の4years.には続きがある。「関学史上最高のWR」という永遠の目標に向かって――。