アメフト

特集:第73回甲子園ボウル

日大アメフト部「フェニックス」の1年

昨年の甲子園ボウル、日大は27年ぶりに学生日本一となった(撮影・矢木隆晴)

第73回甲子園ボウル

12月16日@阪神甲子園球場
関西学院大(関西1位) 37-20 早稲田大(関東)

1年ぶりにここへやってきた。去年の甲子園ボウル。大学3年生だった私はカメラのシャッターを夢中で切った。あふれる涙を何度も袖でぬぐいながら、日本大学新聞社の学生記者として、フェニックスの27年ぶりの日本一を見届けた。だけどことし、甲子園に彼らの姿はない。

フェニックスの「音」を聞き続けて

この4年間、誰よりも近くでフェニックスを見てきたという自負がある。練習グラウンドが隣接し、選手たちのほとんどが所属する桜上水のキャンパスに通った。私はアメフトとは縁遠い山口県で生まれ育った。ただ、フェニックスだけは知っていた。日大出身の父は「日大といえばフェニックス。フェニックスといえば赤だ」と、私が幼いころからずっと言い続けていた。だから、なんとなく、フェニックスにあこがれていた。

大学1年生の夏に日大新聞に入ると、熱望してフェニックスを担当し始めた。3年の先輩のサブとして、取材活動をした。秋のシーズン中ぐらいからだろうか、一つ習慣ができた。駅とキャンパスの間にフェニックスの練習グラウンドがあって、通学のときは必ずグラウンドの脇道を通る。私はそこを通るたびに音楽プレイヤーを一時停止し、耳からイヤホンをはずすようになった。選手のかけ声や、防具と防具がぶつかる音、コーチ陣の檄などが耳に入ってきた。そのわずかな時間が、私にとって特別なものになった。

1年前、甲子園ボウルを取材中の筆者(撮影・矢木隆晴)

2016年になり、先輩から正式に担当を引き継いだ。春先からグランドに通いつめ、いろんな選手に話を聞いた。それぞれが「日本一」になるために強い意志を持ち、日々戦っていた。私は話を聞くたびに胸を熱くした。アメフトが好きな選手やスタッフばかりの集団だった。

その秋シーズン、関東大学リーグ1部TOP8の第4節で中大に負けた。続く法政、慶應、早稲田にぼろ負けし、負け越しの4位となった。日大新聞に書けたのは、たったの48文字。それぞれの想いを知っていただけに、みんなの流す涙を見るのがつらくてたまらなかった。

選手たちが目指す場所がどんなところか、知りたくなった。「甲子園ボウルに連れて行ってください」。私は早稲田スポーツ新聞会の知り合いに頼み込んだ。早スポのカメラマンとして、甲子園のフィールドで撮影させてもらった。いっぱいの観客。ビッグプレーのたびに揺れる球場。「来年、絶対フェニックスとここに来る」。甲子園の空に誓った。

あがいた選手たち、私は鶴を折った

日大新聞の学生記者は3年生までしか活動がない。私にとって最後の1年が始まった。17年1月初旬、学校が始まるとすぐに異変に気づいた。学校ですれ違う選手たちは足を引きずって歩き、伏し目がちにしていた。復帰した内田正人監督のもと、1980年代の常勝時代にやっていた過酷なダッシュのメニューが復活した。誰かが手を抜けば、やり直し。何千ydも走ったあとには、通常この時期にはやらない試合形式の練習が延々と続いた。

チーム状況は最悪だった。「主力選手が出ていった」「◎◎が部をやめそう」「人数が足りなくてユニットが組めない」などという話が、あちこちから聞こえてきた。前年のように毎日のように取材に行けるような雰囲気ではなかった。殺伐としていた。私はグラウンドの横を歩きながら、必死に食らいつく選手たちの声を聞いた。彼らのあがいた日々は、報われた。

秋のリーグ初戦。前年敗れた中大に最後のプレーでフィールドゴールを決め、20-17と接戦をものにしてからフェニックスは勢いに乗った。2年ぶりに関東を制し、東日本代表決定戦で東北大を圧倒し、甲子園ボウルへの切符をつかんだ。

私はリーグ戦の途中、必勝祈願の折り鶴をつくり続ける選手やスタッフの保護者の方々を取材した。甲子園ボウルを前に、その中の一人から「もしよかったらあなたも折ってくれませんか」と言われた。喜んで手伝った。甲子園ボウルの5日前から毎晩、いままでの取材を思い起こしながら、全部で200羽の鶴を折った。一つひとつに心を込めた。

そしてフェニックスは27年ぶりに王座に返り咲いた。甲子園に注ぐ西日が彼らを照らし、勝利を讃えているようだった。美しい光景だった。私はライスボウルまで連れて行ってくれた彼らに感謝の気持ちでいっぱいだった。その思いを伝えると「フェニックスの一員やん。一緒に戦ってくれてありがとう」と言ってくれた。本当にうれしかった。

選手からアメフトがなくなった

だからこそ、ことし春の「悪質タックル問題」は苦しくて、悔しくて、悲しかった。あの5月6日の関学との定期戦前日、私はことし卒業した部員に会っていた。翌日に控えた試合の話で盛り上がった。その代のほとんどの人たちが応援に来ることを知り、「明日は特別な日になる」。そう思った。なのに、まったく別の意味で特別になってしまった。

あの日、私はカメラを構え、ボールを追っていたため、例のプレーは見ていない。ただ、アメフト取材をしてきて4年目。退場になる選手を初めて見た。何があったのか。ハーフタイムにスタンドへ上がり、懐かしい面々に聞いた。驚くような話を聞かされた。そして、試合後の囲み取材では、おかしなことを言う内田監督に疑問が沸いた。何かがおかしいと思い、戦った選手たちに話を聞いた。数日前から宮川泰介選手が練習に参加できていなかったことを知った。

その日の夜、ツイッターでタックルの動画が拡散された。毎日、どんどん広がった。収集がつかなくなった。選手たちはネット上で沸き上がるチームメートに対する非難に、おびえた。宮川選手がやめるかもしれないという話が出てきた。彼を慕う選手たちは泣いた。チームは関学との試合の翌週、騒動に対しての説明もなしに関大、名城大と練習試合をした。私は、チームとして何を考えているのか分からなかった。それは選手たちも同じだった。周りで起こる、すべてのことに困惑していた。

春に予定していた試合はすべてなくなり、全体練習は中止になった。グラウンドや学校の周りには、テレビクルーや記者たちが連日押しかけた。内田監督は辞任したが、日に日に事は大きくなっていった。フェニックスの選手たちは毎日ミーティングをした。だが、話はまとまらなかった。意見は割れ、チームはバラバラになっていった。

私は週1でしか授業がないのに、ほぼ毎日学校に通った。フェニックスのロゴが入ったジャージなどを身につける人はいなくなった。選手たちは授業を終えてグラウンドの入り口を足早に通り過ぎ、帰路につく。アメフトが大好きな選手たちから、アメフトがなくなった。

私はただ、何も聞こえないグランドの脇道を毎日歩いた。何も聞こえないのが頭では分かっていても、耳からイヤホンをはずす習慣はなくならなかった。

あの試合から16日後、宮川選手が一人、会見に立った(撮影・山本壮一郎)

5月22日、宮川選手は日本記者クラブで350人を超える報道陣を前に記者会見を開いた。無数のフラッシュの中、頭を丸めた青年は20秒近く頭を下げ続けた。大きな過ちを犯してしまったことに変わりはない。だが、会見で「自分にはフットボールを続ける権利はありません」と言ったとき、胸が苦しくなった。自分のしたことに対して真摯に謝罪する姿を見て、ことがいい方向に運んでほしいと心の底から思った。

翌日、すでに辞任を表明した内田前監督と井上奨前コーチが記者会見を開いた。状況は何も変わらなかった。むしろ、悪くなった。選手たちの多くは一貫して宮川選手の復帰を懇願し、考え続けた。声明文を出し、チームを一新することを決めた。約1カ月半ぶりに全体練習が再開した。

久しぶりに声が聞こえる。私は少しでも長く聞いていられるよう、できるだけゆっくりと脇道を歩いた。声には気持ちが入っていた。秋のリーグ戦を迎えられることを信じて練習しているような、そんな声に聞こえた。一方で選手たちの想いに反し、大学の対応は後手後手に回り、秋のリーグ戦出場が危ぶまれるようになった。

7月中旬、私は友人と富士山に登った。出発前日、準備をしていると、ふと2年前の主将が言っていたことを 思い出した。「リーグ戦の前に、ゲン担ぎのために幹部で登るんすよ」と。私はもう、何にでも頼りたかった。もう学生記者ではなくても、もう1度フェニックスの姿を追いたかった。タンスの中からチームパーカーを引っ張り出し、着て登頂した。山頂手前で登山道を整備する女性が「ここ最近で一番綺麗な朝日が見られますよ。頑張って下さい」と言ってくれた。午前4時20分。何にも遮られることなく、朝日は昇ってきた。「フェニックスがリーグ戦に出られますように――」。願った。

その想いは届かなかった。8月、関東学生連盟が会見を開いた。「本年度は出場できない結果になりました」。専務理事のこの言葉を聞いたあとは、何も覚えていない。これまでの3年間が、昨年の甲子園ボウルの歓喜の瞬間が、何度も私の頭の中で再生された。眠れないまま、朝を迎えた。

4年生の多くが部を去ると決めた。フェニックスが崩れていく、そんな気がした。本来なら秋のリーグ戦に向けて夏合宿に取り組んでいる時期に、選手たちは目標のない練習を続けた。「モチベーションをどう保ったらいいんですかね。分からないんですよ」。ある選手が言ってきた。返す言葉がなかった。

不死鳥魂を信じて

9月1日、日大抜きのリーグ戦が開幕した。私は競技場へ向かった。フェニックスの数人が観客席の端っこに座っていた。今シーズン、彼らがフィールドに立つことはない。その日以降、私は「4years.」のカメラマンとしてリーグ戦に通った。試合の帰り道、前年のフェニックスのゲームを思い出しては、目に涙が溜まった。

いいことが、一つあった。宮川選手がチームに帰ってきた。全体練習に復帰した10月4日、いつものように練習のはじめにグラウンドの中心でハドルを組んだ。その中で宮川選手が私たち報道陣の方に体を向け、深々と頭を下げた。頭を上げ、ハドルの方を向くと、輪の中心に向かって道が開いていた。ヘルメットをかぶった宮川選手を中心にいた選手が手招きした。他のメンバーに背中を押され、一歩足を進めると、周りのみんなは歓声を上げ、宮川選手のヘルメットをバシバシとたたき、「長いこと待ってたぞ」と言わんばかりに迎えた。私は大学4年生なのに、つい母親のようなまなざしで見てしまった。おかえりなさい。チームは大きく前進する、そう思った。

10月、宮川選手(中央)がチームに帰ってきた(撮影・松嵜未来)

11月末、新チームにとっての2戦目となる練習試合、社会人Xリーグのアサヒビールシルバースター戦へ取材に行った。久しぶりに赤を見られる。家を出る前から緊張していた。だが、私が見たフェニックスは、いままでの姿とは違った。試合に完敗したからじゃない。彼らからファイティングスピリットをまるで感じなかった。途中からカメラを持つ手に力が入らなくなった。でも、無理もない。選手たちは少なくとも今年を入れて2年間、日本一を目指せない。昨年の栄光が、さらに選手たちを苦しめていた。これから落ちるか、それともフェニックスの名のごとく浮上していくのか。

私はまだ、魂に火が灯っていることを信じている。

今年の甲子園ボウルを取材する筆者(撮影・篠原大輔)

きのう、12月16日、甲子園の地で関学が凱歌をあげる様子を見ながら、新たに願った。

フェニックス、帰ってこい。
もう一度、ここで輝いてくれ。

チームの天と地を誰よりも近くで見た。私の4years.はフェニックスなしには語れない。これからも一生、彼らを追い続ける。

試合直後のテレビインタビューを待つ間に握手する関学主将のQB光藤(左)とエースQBの奥野。前年、このタイミングで日大のQB林と長谷川コーチが抱き合ったのを思い出し、筆者はここに走ってきた (撮影・松嵜未来)

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