アメフト

日大問題で翻弄、立ち上がった関学QB奥野

甲子園ボウルの試合直後、奥野(右)はホッとした表情で主将の光藤と握手

1月3日、アメリカンフットボールの日本一を決める「ライスボウル」が東京ドームであった。学生代表の関西学院大学ファイターズは社会人Xリーグ代表の富士通フロンティアーズに挑んだが、17-52の完敗だった。

試合が終わって5時間ほど経ったころ、私は関学のある選手からLINEのメッセージを受け取った。

「本当に色々とありがとうございました!! 来シーズンも『落ちた』と言われないように頑張ります!!」

エースQB(クオーターバック)の奥野耕世(こうせい、2年、関西学院)からだった。この日、彼にとって激動の1年が終わった。

甲子園ボウルの表彰式で、チアリーダーのつくった花道を駆けていく奥野

関学高でコーチと選手の関係

昨年の5月6日、奥野はまったく予期せぬ騒動に巻き込まれた。日大との定期戦に先発QBとして出場。開始早々のプレーが終わった数秒後、まったく無防備な奥野の背後から、日大のDL(ディフェンスライン)が強烈な体当たりを食らわせた。あの日から、奥野の平穏だった日々が一変した。

私にとって奥野は、“教え子”いや“教え選手”の一人だ。奥野が関西学院高等部に入学し、アメフト部に入ったとき、私は新聞記者をしながら母校である関学高アメフト部のコーチをしていた。小学1年からQBとしてプレーしてきた奥野の第一印象は「体は小さいけど、器用。投げるのがうまいし、走れる」というものだった。何日か練習を見ていると、非常に負けん気が強いことにも気づいた。

私は自分が担当していたキッキングゲームで、1年生の彼を起用したトリックプレーをつくった。大事な試合で繰り出すとっておきのプレーにしようと、何度も何度も一緒に練習した。時は来た。関学高はその年の12月、1高校日本一を決める「クリスマスボウル」に10年ぶりに出た。私は勝負どころで奥野のトリックプレーをコールした。しかし、フリーになると見込んでいたレシーバーがマークされ、奥野はそこへ投げられなかった。

「来年こそ決めような」と二人で誓い、必殺技として熟成させていった。迎えた2年連続のクリスマスボウル。よくあることだが、そのプレーを繰り出すタイミングがなかった。結局、お蔵入りしてしまった。

甲子園ボウルの西日本代表決定戦で劇的な勝利をおさめ、叫ぶ奥野

19歳の困惑「もうアメフトやめたい」

そんな思い出深い選手が、あの「タックル」を受けた。SNS上の動画で奥野の被害を知った私は衝撃を受け、すぐに彼に連絡した。「ひざはなんとか大丈夫です」と返信があり、ひと安心。「秋に向けて頑張れよ」という程度でやりとりを終えた。あんな大騒動に発展するとは知るよしもなかった。

騒動が騒動を呼び、社会問題化した。日大、関学、関東学生アメフト連盟などが記者会見を開き、テレビのワイドショーでも連日取り上げられた。あげくの果てには奥野本人や家族、関学への脅迫もあり、警察が捜査に乗り出した。

その渦中で、当時19歳だった奥野は困惑していた。「もう、やめたい。俺がアメフトやってるから、こんなんなったんや……」。父と母の前でつぶやいた。テレビをつければ、自分がけがを負ったシーンが何度も流れる。スマートフォンを手にとると、「日大」「アメフト」「関学」の文字ばかりが目に入ってくる。大学の構内を歩くと、しゃべったこともない人から親しげに話しかけられる。人の視線がいままでよりずっと気になり始めた。

自宅の近くには常に記者やカメラマンがいた。友だちと車に乗っていると、東京のテレビ局の記者を名乗る人から「この辺に奥野さんの家があると思うんですが? 」と聞かれ、あわてて後部座席で隠れた。「もう、どうしたらいいのか分からなかった……。怖かったです」。考えてみれば、奥野自身が何をしたわけでもない。反則を受けただけなのに、精神的に追い込まれていった。

ファイターズの仲間が救ってくれた

またフィールドで躍動できるようになったのは、仲間のおかげだ。「アメフト部のみんなが、あえていつも通りに接してくれた」と奥野は言う。4回生の先輩はスーパー銭湯に連れ出してくれた。「泊まりに来いよ。毎日でもええからな」と言ってくれる先輩がいた。練習に戻ると、主将の光藤航哉(みつどう、同志社国際)と西野航輝(箕面自由学園)という二人の4回生QBが、すぐそばで気遣ってくれた。「周りの助けがなかったら、絶対に乗り越えられなかったです。本当に感謝してます」。少しずつ、少しずつ、奥野は日常を取り戻していった。

ライスボウルでインターセプトリターンTDを食らい、奥野(中央)は先輩に励まされる

5月27日、春の関関戦で奥野は戦列に復帰した。後半から登場しては38ydのタッチダウン(TD)パスを通し、得意のスクランブルで駆け回った。日大戦の負傷でQBの2番手に序列が下がっていた奥野を、首脳陣は夏からの練習で1番目に引き上げた。ここから奥野の急成長が始まる。

8月末の関西学生1部リーグ初戦で先発QBを務め、第6節の関西大戦ではリードを許して迎えた試合の最終盤、立て続けにパスを通して19-19の引き分けに持ち込んだ。奥野は1回生のとき、関学ディフェンスの練習台として仮想敵のQB役をした。その日々の中で、奥野は大きなDL(ディフェンスライン)に追い回されても、逃げながらレシーバーを探し、投げられるようになった。そのすばしっこさを十二分に発揮し、リーグ優勝に大きく貢献。関西の最優秀選手に輝いた。早稲田大学との甲子園ボウルでも思い通りにプレーし、甲子園ボウル最優秀選手と年間最優秀選手にダブル選出。長く関学のQBコーチを務めた小野宏(ひろむ)ディレクターをして「QBとして、ある種の完成形に近い」と言わしめた。

パスが投げられなくなってからのスクランブル(緊急発進)が奥野の持ち味

ワイドショーの画面で数え切れないほど「タックル」された男は半年後、日本の大学フットボール界を代表する選手へとジャンプアップした。

なぜ最悪の状態からここまでこられたのか。奥野は言う、「気がついたら、フットボールに集中できてました。負けたくないという気持ちだけで、練習できるようになりました」。関学のオフェンスを統括する大村和輝コーチは奥野について「よくも悪くもフットボール大好き少年。過去を引きずらずに、次にいいプレーをしようって切り替えられる」と、全幅の信頼を置いている。

「波瀾万丈というか、こんな一年は、もうないと思います」。たしかに、もう二度とないだろう。最悪の事態から最高の結果にまで持っていった。フットボールというスポーツが、奥野耕世という青年を大人に近づけた。

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