陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years. 2020

筑波大主将・山下潤「語ることの多い4年間」、妥協なしで挑んだラストイヤー

関東インカレで200m連覇。山下(中央)は喜びを爆発させた

陸上の大学日本一を決める日本インカレで、筑波大は女子総合の部で2年連続となる優勝、男子総合の部では3位をなし遂げた。そのチームを率いたのが山下潤(4年、県立福島)だ。ラストイヤーは陸上競技部の主将を務めるとともに、日本代表として世界選手権にも出場。陸上人生の中でも最も印象に残る日々を過ごした。

筑波大・山下潤 主将として日本インカレ10レースを駆け抜け、悲願の400mリレーV

勉強とスポーツを両立するのがベスト

父の訓史(現三段跳日本記録保持者)と兄の航平(全日本空輸)も陸上選手。自身も小さいころから体を動かすのが好きだった。小学生のときは水泳やテニスなどにも取り組んだが、最も身近だった陸上競技にのめり込んだ。「(小学校時代は)かけっこは学校で一番速かった」と振り返る。

中学2年生までは100mをメインにしていたが、最高成績は福島県大会で4位入賞にとどまっていた。「どうやったら勝てるのだろう」と考え、その後の新人戦(2011年秋)では200mに出場。「100mで勝てなかった選手にも勝てて、自分は200mをメイン種目にしようと決めました」

現在まで本種目として取り組んでいる200mの魅力を、「全力疾走の中でカーブなどさまざまな技術要素が求められる繊細さと、200mの間、体力を持続させる力強さが必要で、試行錯誤することが結果に直結してくるところが好き」と語る。

中学卒業後は県立福島高校に進学。進学校だったが、「はじめは陸上に打ち込むあまり、勉強をおろそかにしてしまっていた」と山下。それでも「受験のためだけではなくその後の人生のために、勉強する習慣をつけなければいけない」と考え直し、競技生活と並行して勉強にも取り組んだ。「勉強とスポーツを両立するのがベスト」という現在の考えが確立したのもこのころだった。

最後の筑波ユニで400mリレーV

筑波大に進学を決めた理由は「リレーで勝ちたかったから」。高校時代にも400mリレーでインターハイには出場したものの、予選敗退。「大学では頂点に立ちたい」という思いで、陸上短距離の強豪校である筑波大を選んだ。自由に練習メニューを考えて実践できるところや、学問として陸上の研究ができるところも魅力的だったという。

その思い通り、入学直後の関東インカレでは1年生ながら400mリレーで優勝。「このまま4年間リレーで優勝し続けることができるかなと思った」と言うが、2年生のときには日本インカレ7位、3年生のときには「優勝する実力のあるメンバーだった」というが、バトンミスがあり、予選落ちに終わった。

3年生の日本インカレでは個人戦2連覇を果たすも、リレーでは予選落ちに終わった(中央が山下)

「リレーのために入学した」筑波大で、不完全燃焼のまま迎えた最終学年。山下は自ら主将に立候補した。

1年生のころから安定した競技成績を出し続け、周囲からもリーダーシップを発揮することを期待されていた。自身の競技とチーム運営に苦心する場面もあり、「どのようなリーダーシップがこのチームには求められているのだろうか」と何度も考えた。そして、「結果を残し、背中で引っ張ることが自分のキャプテンとしての役目」だと気づいた。

主将として迎えた最後のシーズン。関東インカレでは個人種目の200mで2連覇した一方、400mリレーでは予選落ちとなり、「気持ち的にもきついところがあった」と振り返る。

関東インカレで山下(中央)は200mを連覇した

自身の世界選手権代表選出がかかった大会も控える中、日本インカレに向けてチームを牽引し続けた。そして昨年8月、Athlete Night Game in Fukuiの200mで20秒40の記録で3位に入り、世界選手権代表に内定した。

迎えた自身最後の日本インカレは、100m、200m、400mリレー、1600mリレーの4種目10レースに出場。「世界選手権に向けてインカレのレースを絞る」という考えは、山下の中にはなかった。「誰に何を言われようと、インカレで結果を残すことが主将である自分の使命」。そう覚悟を決め、レースに臨んだ。

とくに400mリレーに向けては、メンバー個人の走力向上に加え、バトンミスをしてしまった前回大会の反省から、バトン練習をしっかりと重ねてきた。100mで優勝した先輩の東田旺洋(大学院修士課程2年、奈良市立一条)にバトンを渡し、アンカーの齊藤勇真(3年、九州学院)が1位でゴールを駆け抜けた。

400mリレー決勝、バトンは山下から東田へ。チームは悲願の優勝を果たした

10レース目となった1600mリレー決勝で、山下はアンカーを任された。下位でバトンを受け取ったものの、持てる力をすべてを振り絞り、チームを2位にまで押し上げた。本職ではない400mで体力にも余裕がない中、山下を突き動かしたのは「筑波のユニフォームを着て走るのはこれが最後だ」という思いだった。「終わってほしくないな」。トラックを1周を走る最中、頭をよぎったのは大学4年間の陸上生活のことだった。

悲願の400mリレー優勝を飾り、男子総合3位を果たした。「主将としての役割は果たすことができたかな」。最後まで走りきった主将は、満足感を漂わせた。

大学生として、勉強もバイトも一人暮らしも

大学生活では競技だけでなく、勉強や研究にも打ち込んだ。卒業論文では自身の競技に着想を得て、「直線スプリントと曲線スプリントにおける疾走動作への力発揮特性の影響」というテーマで研究した。ジャンプやスクワットの際の筋発揮に関わる動作の違いを右足と左足で比較し、カーブ動作の分析に応用するものだという。「競技にも研究がうまく生かせたらいい」と語る。

この4年間で、「大学生として、興味のない分野も勉強しなければならず、大変な部分もあった」と筑波大での学習に苦労した。それでも「一番好きな陸上競技について深く研究することができて良かった」と振り返る。

大学では初めて一人暮らしも経験した。アスリートとして気を使った自炊をするようになり、「親が作るご飯はおいしいと気づいた」と笑う。大学近くの飲食店でもバイトをした。「高校時代から、バイトをすることは大学生らしいなと少しあこがれがあった」。筑波での大学生活は、選手としてだけでなく大学生としても充実した日々だった。

筑波から世界へ 東京五輪でメダル争いを

大学卒業後は兄の航平も所属する全日本空輸に所属し、競技を継続する。他の実業団からも誘いはあったが、「勤務時間がしっかりと確保されており、社会人として競技と仕事を両立できる」ことが決め手となった。学生時代に競技と勉強の両立を大切にしてきたことが、いまにつながっている。

東京オリンピックが決まった瞬間、山下の目指す場所が決まった

今後は社会人アスリートとして、20秒03の日本記録を更新する19秒台を出し、東京オリンピックのメダル争いに加わりたい。13年にオリンピックの会場が東京が決まってから、「絶対に出ないといけない」と心に決めていた。

アスリートとしては、自らが慣れない世界大会で萎縮する中、気さくに話しかけてくれた飯塚翔太(中央大~ミズノ)があこがれだと話す。大学時代、主将として努力したことを生かし、飯塚のような「陸上競技界のリーダー」を目指していく。

昨年9月からあった世界選手権は、「調子が悪くないのに記録が出ない、ちぐはぐなレースだった」と語るように、悔しい予選敗退に終わった。山下の大学陸上生活はこれで幕を閉じるが、アスリートとしての未来は明るく広がっている。

「これまでの競技生活の中でも、語ることの多い4年間だった」と山下。この大学4年間は一人の選手として、一人の人間として、得るものの多いとても濃密な期間だった。

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