自分にしかない経験をやりがいに変えて活躍しつづける 服部泰卓4完
「4years.のつづき」シリーズ17人目は元千葉ロッテマリーンズピッチャーの服部泰卓(やすたか)さん(37)です。徳島県立川島高校から駒澤大学へ進学、トヨタ自動車を経てプロ入りした服部さん。引退後は講演活動などにも携わり、野球の魅力を伝え続けています。野球応援団長の笠川真一朗さんが取材・執筆を担当しました。4回連載の最終回は、プロでの経験、そして引退後に見つけたやりがいについてです。
結果が出ない5年間、「最後の1年」に開き直った
服部さんは夢のプロ野球選手としてスタートを切りました。セルフマネジメントを継続して手にした夢の世界でしたが、「プロに入って活躍しようと背伸びしてしまい、自分にできないことをやろうとした。能力でプロに入ってないのに(、あるはずのない)能力を伸ばそうとしてしまった。それをプロに入ってから5年間も繰り返してしまった」と振り返ります。
まったく活躍できず、気分も落ち込み悪循環に陥ってしまいます。5年目が終わった時に、戦力外を覚悟したそうです。しかし当時のロッテは、左腕が足りないというチーム事情がありました。球団からはっきりと「左の枚数が足りてない。そしてドラフト1位でトヨタから獲った。だからもう1年だけ見る。次でラストだぞ」と言われ、服部さんは原点に立ち返ります。
「野球人生、最後の1年を俺のための1年にしてやろうと思った。投げたい球を投げたいだけ投げる。得意のスライダーをど真ん中めがけて思いっきり腕を振って投げ込む。誰に何を言われても関係ない。これを1年間やり続ける。それで派手に打たれるか、ピシャッと抑えれるかはもう知らない。社会人3年目を思い出して完全に開き直った」。能力は変わってない、むしろストレートは遅くなってたという服部さんですが、今できることを後悔しないように、ただただ全力で腕を振り続けて最後の1年間を終えようとしました。
開き直った年に活躍、そして戦力外通告
そしてその結果、服部さんは2013年の開幕戦で8番手として登板しプロ初勝利を挙げると、プロ入り後初めてシーズン通して1軍に帯同しました。主に左打者のワンポイントととして幾度となくチームのピンチを救い、自身最多となる51試合に登板しました。開き直ってプロ6年目にして素晴らしい成績を叩き出したのです。
緊張感のある場面で、ワンポイントとしてマウンドに向かう時の心境が気になって聞いてみました。「プロで生き残るにはこの役割しかないと思ってたから、とにかく左をどう抑えるかと向き合った」といいます。ヒリヒリする場面での登板、と考えるとしんどくなるので、「たかだか1日で1アウトを取るだけの仕事。ヘタしたらマグレでも取れるかもしれない。打者は10割打つわけじゃない。ひとり抑えただけでよくやったと言われる仕事。こんな楽な仕事はない。よっしゃ! 思いっきり腕振ってこよ、って考えるようにしてたね(笑)。そのほうが自分にとっては良いパフォーマンスにつながったから。相手は変えられないからね」と思い返してくれました。
しかし活躍は長くは続きませんでした。2015年のシーズン終了後に球団から戦力外通告を受けました。「1軍で結果を残してから『これより良い結果を出したい』と思ってしまった。今までそれで失敗してるのに、またコントロールできない結果を動かそうとしてた。今では失敗した原因がわかるけど、当時はわからなかった」と振り返ります。
それでも服部さんは「最高に楽しかったよ。人生もう1回あっても絶対、同じようにプロ野球選手を目指すよ」といいます。「8年間で1年しか1軍で活躍できなかったし、周りの人から見たら悲しくて辛い野球人生と思われてるかもしれないけど、ピンチでマウンドに上がって抑えたときの湧くような大歓声とあの高揚感は、一生の財産になってる。引退してからも、仕事がうまくいったとき、子どもが産まれて家族が増えたとき、うれしいことは山ほどあるけど、あのマウンドでの最高の感覚はマウンドでしか味わえない。人生で2度とないと思う。他の何にも変えられない財産になったね」とプロ野球生活を振り返りました。
そしてこう続けます。「後悔っていう言葉が嫌いで。プロで悲しい、悔しい経験もせっかくできたんだから、それを財産にして今後の人生に生かしていけばいい。自分の経験は自分にしかないものだから。そう考えられたら後悔ってないと思う」
子どもたちにプロのボールを見せたい
どんな時でも前を向いている服部さんだからこそ、引退後に始めたことがあります。「夢プロジェクト」です。小学生・中学生が所属する野球チームを訪れ、現役当時のマリーンズのユニフォームを着て、実際にマウンドで投げるというプロジェクトです。子どもたちは打席に立ち、服部さんの球を生で体感します。
「自分が高校生の頃に條辺(剛)さんを見たときのように、今の子供たちにとって良い意味でプロへの線引きにしてもらえたらなと思って。プロにいたのはもう4年前のことだし、昔のようには投げられないかもしれないけど、しっかり身体も作って現状で出せる全力の球を投げるよ。それが夢のキッカケになるかもしれないし、喜んでもらえたら嬉しいしね」と思いを語ります。僕もこのプロジェクト、服部さんと一緒に長野県まで同行させてもらいました。子どもから大人の方まで、服部さんのユニフォーム姿、投げる球に目を輝かせていました。すごくキラキラした野球少年たちの目は本当に綺麗でした。きっと子どもたちはこの日を忘れないんだろうなと思いましたし、僕もこの日のことを忘れません。
自分にしかできないことを大切にする
引退時に「自分は野球しかできない。当時はそう思い込んでいた」というところから始まった生活。コーチの誘いなどもなく、「やりがいは何なのか」を模索する日々の中で、いろんな人に会って話を聞いたそうです。
株式会社ミヤシタの方と話した時に「野球をやってたときの不安って何だった?」と聞かれたそうです。服部さんがいまも勤める保険を扱う会社です。服部さんは「収入の波が激しいうえに、終わりがいつ来るかわからないのが不安でした。野球選手は誰しもがその部分に対して不安を抱えていると思います」と答えました。すると「それってプロ野球選手になった服部くんだから経験できたことだと思う。そういう経験がある服部くんだからこそ、同じように不安を抱えているプロアスリートのリスクを排除できないかな」と言われたそうです。
この言葉を受けた服部さんは目の前がパッと明るくなり、プロアスリート専門の保険担当という職業を選択しました。「そうだ! 俺はプロに行くために自分にしかできないピッチングをずっと考えて、自分にしかできないことを大切にしてきたんだ。これって野球以外にもビジネスでも使える。これをやりがいにしよう!」。服部さんは野球で培った自身の経験を仕事に生かそうと決めました。
野球で得たものをオンリーワンの経験として活かす
いまは、企業研修などの一環として講演活動もされています。「僕は野球という競技人生で目的・目標を決めて、プロセスを考えてゴールに向かってレールを敷いて成果を出してきた。その経験をビジネスに置き換えて話をさせてもらっている。これも自分にしかできないことかなって思ったら、やりがいになってる」。服部さんは野球で得た「自分にしかできないこと」を次の舞台でも継続しているのです。野球は本当に人を育てるものなんだと実感しました。
せっかく競技に取り組んできたのだから、競技で得た経験を人生に生かさないのはもったいないです。平安高校にいたとき原田監督に言われたことがあります。「ユニフォームを脱いだときに、初めて野球をやってきた人間の魅力が出る。どうせ野球をやるんだから、野球を離れたときに魅力のある人間になっていたほうがカッコよくないか?」と。一生できなくて終わりがあるからこそ、野球の時間を大切にしなくてはいけないと思いました。大切にしていれば、きっとその後の人生でも活躍できるはずです。服部さんはそれを体現してきたのだと思うと胸が熱くなりました。
正解はない、自分自身がどう動くか
「自分にまったく特徴がなかったからこそ、自分を徹底して分析した。分析するには客観して自分を見る能力が必要。その能力が身についたのはすごく大きかった。特徴がなくても自分でそれに気付いて、頭を使って身に付けたらこんな僕でもドラフト1位でプロに行ける」
お話を聞かせてもらう中で、すごく印象に残った言葉です。圧倒的な素質を持って高卒でドラフト1位になる選手、服部さんのように「特徴・素質が足りないから頭を使う」という過程を積み重ねて社会人からドラフト1位になる選手。いろんな選手がいます。プロに行くためには「こうでないといけない」という正解は必ずしもあるわけじゃないと勉強になりました。だからこそ、身体のサイズで見られることや、人からどんなイメージを持たれても、全部ぶち壊せるのはまぎれもなく自分自身なんだと感じます。
自分の魅力を出すのも自分自身、自分の足りない部分を消していくのも自分自身。自己分析を重ねていけば、成長できるのです。これは野球のみならず、いろんなことに共通している大切なことだと感じます。
またしても僕は服部さんに大きく成長させてもらいました!
服部さん、ありがとうございました!
僕も負けないように頑張ります!