野球をやめると決めたラストイヤーで活躍、思いがけないプロ指名 今浪隆博2
今浪隆博さん(35)の「4years.のつづき」2回目です。京都の強豪・平安高校から明治大学に進みドラフト7位で日本ハムファイターズに入団、その後ヤクルトスワローズに移籍しプロで11年プレーした今浪さん。今回は、大学に進むもプロの夢を諦めたこと、そして衝撃のプロ入りについてです。取材・執筆は野球応援団長の笠川真一朗さんが担当しました。
野球以外に時間を取られ、失われるやる気
母親から「お小遣いをたくさんもらえる」という条件で進学した明治大では、厳しい現実が待っていました。今浪さんは「想像以上にくだらないことが多かった」と振り返ります。当時は無駄な上下関係、野球以外の雑用など、「プロに行くための野球」に集中できない状態だったといいます。「確実に野球に集中できる環境じゃなかった。それでも環境を作るのは自分だとわかっていたけど、当時の自分には無理で。だんだんやる気がなくなっていった」。昔から抱いていたプロ野球選手になることの情熱が、次第に冷めていきました。
1年生が終わる頃には手首をけがし、さらにやる気はなくなっていきました。「それこそ堕落した生活を2年生の頃は送っていた。練習には行かないし、学校にも行かず遊んで、夜に寮に帰って、怒られるのが面倒だから雑用だけはした。もう完全に野球をやるということを忘れている状況だったかな」と当時を振り返ります。
学業をおろそかにし、練習に出られず
そして気付けば3年生。手首のけがも治り、上級生になると雑用もなくなりました。今浪さんはここで立ち上がり「やっと野球ができる!」と毎日、練習に出るようになります。すると当時の監督に「最近よく練習に出てるな。学校の方は大丈夫か?」と聞かれました。今浪さんは「僕は野球をしに来たんで授業は行かないですよ」と何も考えず気軽に答えたそうです。すると「今すぐ福岡から両親を呼びなさい」と監督は激高しました。「学生の本分は学業です。学業を優先しないなら練習に出さない」と告げられ、今浪さんは練習に出ることを許されませんでした。そこでまた野球からフェードアウトしていきました。
「今なら少し考えれば、そんなことは絶対に言えないけど、当時の僕は卒業するために明治大学に来たんじゃなくて、プロに行くために来たと思ってるから。勉強のことなんてまったく考えていなかった。そんな考えは通用しなかったね」と反省気味に振り返られていました。そしてまた、学校に通い勉強だけの日々が続きます。ここで「もうプロは不可能やな」と思って、昔からの夢を諦めたそうです。
「野球をやめる」と決め、最後の1年に全力
ここまでの話を聞いて僕は「どうやってこの人はプロになったんだろうか? いつ本気を出したのだろうか?」と猛烈に不安になりました。どう考えてもプロ野球の世界に進んだ人の話に聞こえてこなかったのです。しかし今浪さんの大学野球はここからが本当のスタートでした。
今浪さんは4年生になり大きな決心をしたのです。「プロに行けないから野球は大学でやめる。その代わり1年間は真剣に野球をやる。学校にも真面目に通って就職する」と決め、寮の屋上で母親に電話をしました。もちろん母親からは大反対されました。しかし今浪さんの決意は固く、「最後の1年間は真剣に野球をやる」と決めたことを伝えました。そして全力で学業と練習に励みました。
「それからは『こうやって打て』とか『こうやって守れ』とか、それまで言われてきた常識や固定概念は一切、無視した。自分がヒットを打つためには、結果を出すためには、それをひたすら自分の力だけで考えた。それがものすごく良い経験になったよ」。周囲の声に耳を傾けず、ひたすら自分自身と向き合うことでコツを掴んだのです。今浪さん独特の打撃フォームは、この時に掴んだものがベースになっているそうです。
4年生の春にレギュラー、打率3割超え
今浪さんは最後の春のリーグ戦を遊撃手のレギュラーで迎えました。リーグ戦が終わってみると打率は3割を超えていました。1年間だけ真剣に野球をやると決め込んで練習をしたとしても、簡単に結果が出るほど大学野球、東京六大学野球の世界は甘くありません。それでも結果を出すのですから、今浪さんが自分と向き合ったことで見つけ出しものはすごく大きいんだなと思いました。
春が終わると、社会人野球の企業からいくつか誘いを受けたそうです。それでも今浪さんは「野球ををやめるので」と全部の誘いを断りました。「僕はプロ野球選手になりたいだけで、野球を長く続けたいわけじゃない。プロになれないかもしれないのに野球を続ける理由がなかった。社会人野球にも一切、興味がなかったし。自分の中ではプロ野球以外はありえなかったから」と言い切ります。当時のコーチで、後に監督を務める善波達也さんから「お前はもったいないなぁ」と言われ続けていたそうです。
首位打者も、ベストナインも獲れず現実を思い知る
そして秋になり、最後のリーグ戦を迎えました。とにかく最後に首位打者を取りたくて練習し、挑んだそうです。すべての試合を終えた時点で打率は.361、リーグ1位。そして迎えた最終節の早慶戦を、今浪さんはスタンドで見守りました。「慶応にいた岡崎(祥昊)が最終打席に安打を打てば彼が首位打者で、凡打なら僕が首位打者だった」と当時のことを振り返ります。結果、岡崎さんは安打を放ち、今浪さんは打率2位でリーグ戦を終えました。
首位打者のタイトルを取れず「そっか。まぁ俺の野球人生、こんなもんか」と思ったそうです。それでも「確実にベストナインなら獲れると思ってた。最後にタイトルを獲れたらそれでじゅうぶんだった」と野球人生の華向けとなる受賞を待ちました。しかし、まさかのベストナインも落選。受賞したのは、後にプロの世界でチームメイトになる法政大学の大引啓次選手でした。
「あの秋のリーグ戦で大引より下回る数字が何ひとつなかった。打撃も守備も。強いて言うなら試合数くらい。僕はぎっくり腰で1週目は欠場したから。それでも獲れると思ってたけど獲れなかった。『ああ、これが現実か』と受け止めるしかなかった」
こうして今浪さんの大学野球は終わりました。
「お前は野球をやめるな」そして衝撃の連絡
秋のリーグ戦が終わり、「野球もしない、勉強もしない、どっちも中途半端な自分が嫌で仕方がなかった。もう野球はやめるし、就職してしっかり社会に出ていけるように勉強しよう」と次の目標に向かって動き出そうとしていました。
今浪さんがこのタイミングで「野球をやめます」と連絡をした方がいました。「なぜ連絡をしたのか今思えば理由はわからない。別にしなくても良かったといえば良かったかなというくらいだった」と語る方にです。その方は明治大学のOBで、元プロ野球選手の住友平氏。当時、キャンプの臨時コーチを務められていて指導して頂いたそうです。
「野球をやめます。お世話になりました」と伝えると「お前は絶対に野球をやれ。野球をやめてお前に何ができるんだ? 絶対にやれ。おれが今から野球を続けれるようにどうにかするから待っとけ」と言われたそうです。しかし今浪さんは「もういいんです。ほっといてください。もう一切やる気がないんで余計なことしないでください」とムキになって伝えました。そうして電話が切れました。
秋のリーグ戦後は一切練習もせず、グローブ以外のすべての野球道具を後輩に渡した今浪さん。今後は両親に渡されたお小遣いを使わず、バイトをして自分で使うお金は自分で用意しよう、と決意します。牛丼屋のバイトの面接に行こうとした日に、マネージャーから衝撃の連絡が入りました。「今浪さん、今すぐ寮に来てください。日本ハムファイターズのスカウトさんが来られています」。今浪さんはハッとしました。バイトの面接を断り、寮に向かうと「明日、指名します」とあいさつを受けました。その言葉で、住友さんの「絶対野球をやれ」の言葉と「すべてが繋がった」と感じ取りました。今浪さんはドラフトの日すら知らずに、アルバイトの面接に向かおうとしていたのです。
勉強に集中し、就職を目指そうと思っていた矢先のできごと。「せっかくだからプロの世界をのぞいてみるか」と思い、半信半疑で指名を待つことにしたのです。