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連載:4years.のつづき

自分を追い込み苦しんだ日ハム時代、開き直ったヤクルト時代 今浪隆博3

今浪さんは多くのファンに愛される選手になりました(2015年のCS最終ステージ第3戦、撮影・杉本康弘)

今浪隆博さん(35)の「4years.のつづき」3回目です。京都の強豪・平安高校から明治大学に進みドラフト7位で日本ハムファイターズに入団、その後ヤクルトスワローズに移籍しプロで11年プレーした今浪さん。今回は、プロに入ってもがいたのち活躍、そして病に悩まされたことについてです。取材・執筆は野球応援団長の笠川真一朗さんが担当しました。

野球をやめると決めたラストイヤーで活躍、思いがけないプロ指名 今浪隆博2

誰もいなかったプロ指名現場

2006年11月21日の大学・社会人ドラフト会議で、今浪さんは日本ハムファイターズから7位指名を受けました。

記者は誰ひとりとして現場にいませんでした。急きょ設けられた会見場にはチームメイトもいません。誰もそんな事実が起こる可能性すら知らなかったからです。記者からマネージャーに今から行くと電話があり、会見場でひとり待っていた今浪さんが対応することになりました。訪ねてきた記者から「すみません、今浪選手はどちらにいますか?」と声をかけられ、「今浪は僕です」と答えた、と当時のエピソードを笑いながら話してくれました。

指名に繋がったのは決して人や運に恵まれていただけではありません。そもそも今浪さんの行動自体が運命をたぐり寄せていたのです。「プロになりたかった自分のケジメとして、指名は絶対にないと知っていたけど、マネージャーにお願いして提出してもらっていた」とプロ志望届を提出していたと語ります。この行動がなければ指名は絶対にありませんでした。

2006年のドラフトで指名され、プロ野球選手になった今浪さん(前列左端、撮影・川津陽一)

望んだ進学先と違う学校に進み、望んだ未来とかけ離れていた状況に打ち負け、故障や挫折も経験されました。希望を自ら絶ったこともありました。それでも野球をやめませんでした。「1年間、真剣に野球をやる」そう決め込んで実践し、結果を出したのも今浪さんです。どれかひとつでも欠けていれば「プロ野球選手・今浪隆博」は存在していなかったのです。本当にすごい人生だと思いました。

「1年でクビ」宣告にも「楽しもう」

こうして今浪さんは野球道具を集め直すことからスタートしました。しかし契約時に現実を突きつけられました。球団関係者に「来年でクビになります」と告げられたそうです。理由は今浪さん自身しっかりと理解していました。だからこそ「せっかくだから楽しもう!」その気持ちを持ってプロ野球の世界に飛び込んだそうです。

昔からの夢を叶えてプロ野球の世界に足を踏み入れたルーキーの今浪さんは「楽しかったなぁ。すごく楽しかったよ。プロのレベルの高さ、凄さを実感できて。球を捕る美しさ、送球の強さ。感動するくらい飛んでいく打球。本当にお客さんのような感覚で『すっげえな〜』と思った」と振り返りました。終わりが見えている現役生活。そのことについては「どうせ1年で終わるからと思って、ひたすら楽しんだよ。野球をやめるはずだった自分がプロ野球選手と一緒にプレーしてる。それがとにかく嬉しかった。1年間で100人ほどしか選ばれて入れない世界。そこにいるのはすごいことだと思った」と、幸せを噛み締めてプレーしたそうです。

終わるはずだったプロで打てた初ヒット

1年目を終えると結果的にファームで80試合の出場。1軍での出場は無かったものの打率は.280を記録しました。シーズンを終えたときに「これで終わりか。いつ呼ばれるのかな」と思いながら連絡を待ちました。しかしいっこうに球団からは連絡が来ません。その後、当たり前のように契約が更新され、2年目を迎えることになったそうです。

あれ?クビって言われないな…毎年契約は更新されていきました(撮影・藤井みさ)

そして2年目に1軍の試合に1試合出場しました。「はじめて1軍の試合に出たときは本当に緊張してフワフワしていた」と振り返ります。この時の打席はセカンドゴロ。1軍の試合で1本ヒットを打つ。それが今浪さんのプロに入ってからの目標になりました。3年目には待望の1軍初ヒット。「『プロ野球でヒットを打てた!』って感動した。すごく嬉しかった」

ひとつの目標を達成し、今浪さんは次の目標を立てました。それは「プロ野球で10年間プレーすること」です。当時のプロ野球には年金制度があり、10年間プレーすると年金がもらえるという仕組み。今浪さんはその制度を知り、絶対に10年やろうと気合が入ったそうです。しかし思った途端にその制度は撤廃されます。少し落胆し、またしても目標を見失いそうになりましたが、「毎年、自分の成績を更新する」と新たな目標を立てました。

出場機会を増やすも自分を追い詰め苦しく

1年間しかないと思っていたプロ野球での生活。楽しむことから始まった今浪さんですが、次第に心の余裕がなくなっていきます。出場機会を増やしていくことで自らにプレッシャーをかけてしまったのです。日本ハム時代は本当に心に余裕がなかったといいます。

「自分には守備力、しっかり守ることを求められていると思っていた。当時の日ハムは守り勝つチーム。僕が出る場面は守備固め。試合に出るときは勝っている時が多かった。だから自分は守備をしっかりしないといけないと思い込んで、プレーが固くなっていった。バントもしっかりしないといけない。チームプレイに徹さないといけない。あれもやらないと、これもやらないと、という風にどんどん自分を追い詰めてしまった。正直、打席のことなんて考えられてなかったし、どうでもよかった。それより守備のことで頭がいっぱいになっていた」と振り返ります。当時の絶対的な遊撃手・金子誠さんが抜ければ今浪さんがそこに入り、二塁手・田中賢介さんが抜ければそこに入り……内野のすべてのポジションに守備固めとして入るのが今浪さんでした。

守備で結果を出さなければいけない。そう自分を追い詰めてしまったといいます(2012年の日本シリーズ、撮影・伊藤進之介)

「あの頃は自分の中で『こうしたい!』がなかった。でも球団から『君は守備固めね』と言われたわけじゃない。自分で勝手にそう思って追い込んで苦しくなっていった」と、求められていることに対して自分自身を当てはめることが辛くなり、野球を楽しめない日々が続きました。しかし、そんな経験は決して無駄にはなりませんでした。ヤクルトスワローズへのトレードでの移籍です。その辛い経験をしっかりと生かしました。

心機一転活躍も、病が立ちはだかる

「ヤクルトに移籍したときに考え方を凄くシンプルにした。次は打つことだけ考えようと思った。それですごく心が楽になった。ヤクルトに行ってからは『〇〇しないといけない』が『〇〇したい!』に変わった」

大きな心境の変化が訪れると、移籍2年目にはプロ入り初の本塁打を放ちます。そして移籍3年目の2016年には自己最多となる96試合の出場を果たすなど、大きな存在感を示しました。

しかし今浪さんはその年の9月、ある病にさいなまれます。甲状腺機能低下症です。徐々に体調が悪くなると、気持ちも落ち込んでいきました。病院に行き検査を受けて、病名を告げられときは「『ああ、そりゃしんどいなぁ』と思った。でも薬を飲めば大丈夫と聞いたし、あまり深く考えなかった」と振り返ります。しかしその後、薬を飲んで数値は安定しているはずなのに不調を感じたり、体も動かない、声も出ない、人にも会いたくないという状況になってしまいます。「しんどかった。とにかく苦しかった」といいます。

本当の意味で知る「ファンへの感謝」

そんなとき大きな力になったのはファンの方々でした。「今浪チルドレン」と呼ばれるファンの方々が今浪さんを支えていたのです。「病気になってからファンの方々のありがたみをより感じられるようになったなぁ。送られてくる手紙とか掛けられる声の内容がすごく変わって。例えば『同じ病気です、共に頑張りましょう』とか『私も〇〇という病気で苦しんでますが、いつも浪さんの頑張ってるプレーを見て元気をもらってます』とか。病気の内容を調べて効果的な物をアドバイスしてくれたりもして、それがものすごく嬉しくて励みになった」といいます。「これがファンに感謝するっていうことか!」と身をもって実感したそうです。

プロ野球選手になったからこそ、今浪さんにだけ見えている物があるんだと思います(撮影・藤井みさ)

今浪さんの話を聞いて僕は思いました。辛いときにそばにいてくれるのが本当のファンだということです。今浪さんは病気になったことで自分を支えてくれている大きな力を感じられました。プロ野球選手になっていなければ経験できなかったことで、これは何にも代え難く、代わりの利かない一生の財産だと思います。

しかし今浪さんは翌年の2017年、1軍の出場は7試合にとどまり、球団から戦力外通告を告げられ、引退を決意しました。「『助かった』と思った。すごく楽になれた。『もう終わりか』っていう寂しい気持ちはあったけど、未練はなかったね。もともと行けるはずじゃなかった世界。ケガも多いし、病気にもなった。それでも何とか11年間やり切れたから、選手としては満足した」と引退当時の思いを語ってくれました。

4years.のつづき

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