同志社・金野舜平 相次ぐけがで絶望、それでも「サッカーがしたい」と思った
金野(かのう)舜平(同志社大3年、金沢)は昨年3月、情熱を注いできたサッカー人生にピリオドを打った。とくに同志社大サッカー部での1年間は苦しみの連続だった。それでも退部するとき、望月慎之監督には「やりたいことができました」と晴れ晴れとした表情で伝えることができたと言う。
特待生で高校進学、始まったリハビリの日々
かつて球児だった父が、まだ幼い息子にも野球をさせようとグローブを与えたところ、息子はそれを足にはめた。いま振り返れば、金野のサッカー人生はここから始まったのかもしれない。
小学校入学時に地元のサッカースクールへ進むと、才能はみるみると開花。高学年になるころには石川県内屈指の強豪チーム「金沢南ジュニアサッカークラブ」にスカウトされ、全国の舞台を経験した。中学校では県内のトレセン(トレーニングセンター)入りも果たし、その実力が買われ、金沢高校(石川)に特待生で進学。北陸屈指の強豪校で1年生のときから頭角を現すと、2年生の春には同高伝統のエースナンバー7番を受け継いだ。幼いころから培ったドリブルを武器に、攻撃的かつ独特なプレースタイルを持つ左サイドハーフとして活躍した。
しかしその一方で、体は悲鳴をあげていた。そのプレースタイルはドリブルなどに長(た)けていた分、足への負担が大きく、年を重ねるにつれてダメージが蓄積していた。そして高校2年生の秋、右足を骨折。リハビリ生活が始まった。
特待生ということもあり、サッカーができないことに責任を重く感じた。1日でも早く復帰するために、リハビリには自分独自のメニューを用意。病院のリハビリルームには汗で水たまりができるほどだった。「エアロバイクを20秒本気でこいでは休む。それを“一生”。病院の人に『すっごい頑張っとるけど、すっごい汗出とるから拭いてね』って言われたり」。ハードなリハビリは順調に進み、3年生の6月には試合に出られるまでに調子は上がった。
しかし、復帰してからは無意識に右足をかばったプレーが癖になってしまい、今度は左足のじん帯を負傷。インターハイ予選直前にも、またじん帯を痛めた。「せっかく体力を戻したのにまたゼロに戻って。『特待生なのにまたあいつけがした』、『また試合に出れない』って思われているんじゃないかって思い詰めました」。その後、何度も何度も痛みに苦しめられ、そのストレスから食事をまともにできない時期もあった。
高校最後の大会もテーピングでごまかして出場したが、耐えきれなかった。最後まで痛みで何もできず、もどかしい気持ちで高校生活を終えた。
入部2日目に退部を決意、監督からの一言に涙
かねてからのあこがれや、高校時代のコーチの勧めもあり、大学は同志社を選んだ。けがの影響で半年ほどボールに触っていなかったが、サッカー部のセレクションでは絶好調。「とにかく幸せで、楽しくプレーできました」。長期間のブランクを感じさせない動きができた。
ただ、現実は甘くなかった。入部した翌日の練習でいきなり左足を負傷。前日とは打って変わって、地獄に落ちたような気分だった。「俺はもっとサッカーができるのにって。もどかしい感じでサッカーをするのがつらかったです。高校のときみたいに悲しい感じになるくらいならって……」。入部2日目にして退部を決意した。
明日からはサッカーではなく、まったく新しい人生を始める。そう考え、望月監督へ挨拶に行った。けがが理由ならやめられる、と思っていた。しかし監督の反応は違った。
「お前、本当はサッカーがしたいんじゃないんか。ここにはテーピングを巻いてくれるトレーナーもいる。リハビリして、もうちょっと頑張ってみようと思わないか」
まだ顔も覚えていない新入部員に対しても真剣に向き合ってくれた望月監督を前に、自然と涙が流れた。それと同時にふつふつとサッカーに対する熱い気持ちがこみ上げてきた。「やらせてください。止めてくださって、ありがとうございます」。1時間に及ぶ話し合いの末、サッカー部を続けることを決めた。
ギリギリの状態で練習を継続、苦しみながら決断
「今度こそやってやろう」。そう意気込んでいたが、体は限界だった。ボロボロになった肉体はけがを誘発。けがをしてはテーピングでごまかし、またけがをするの繰り返し。練習しすぎると悪化するため、自主練習などはせず、普段の練習もあえて休むために大学の時間割を調整し、足が壊れないギリギリの状態を保っていた。昔から練習が大好きだっただけに、苦しい決断だった。冗談で「しゅんぺいは練習を全然しない」などと周りに言われても、本心は打ち明けず、明るく振る舞っていた。「やる気がないみたいに思われて悔しかったけど、これ以上練習したらじん帯が切れるのは分かっていたからできなかったです」
練習では左足で蹴るべき場面でも、わざと切り返して右足で蹴っていた。コーチに「何回言ったら分かんねん」「お前は改善しない」と怒鳴られても、状態を考えると左足では蹴られなかった。
そして昨年3月、紅白戦中に背後から強烈なスライディングを受け、激痛で立ち上がれなかった。周りからは「あいつ、またけがした」と笑われたが、このとき、金野は「もうサッカーはできない」と悟った。
1カ月間、いままでの楽しかったことを思い出しては泣いた。もうみんなの前には出ず、自分の存在はなかったことにして終わろう、と思っていた。そして望月監督に退部を切り出す前日、けがが理由で退部することを同期の中野滉太(現3年、清水東)に伝えた。
中野とは大学外部の寮が同じだったこともあり、セレクション以来、仲がよかった。「(金野とは)サッカーの話とかもよく食事のときにしていました」と中野は言う。中野は金野を「みんなが認めるくらいドリブルがうまいし、センスもある。いつも笑顔で魅力的な人だったので、チームのために必要な存在」と認めていた。それだけに、最後に挨拶せず、嫌われて終わってほしくないと強く思っていた。2人は話している内に自然と泣いていた。
諭された金野は翌日、グラウンドでチームメートたちに別れを告げた。いままでもどかしくも、ともに切磋琢磨(せっさたくま)してきた仲間たちからは労(ねぎら)いの言葉をかけられた。「正直『やめるんやろ』って突き放されると思っていたけど、違っていて。サッカー部に入ってよかった。あのとき続けてよかったと思えました」。つらい思い出ばかりだったこのグラウンドも、最後は明るく見えた。
ボクサーとして新たな道へ
体育会を続けることは決めていた。金野はその後、友人の誘いを受け、2回生になったばかりの昨年4月にボクシング部へ入部。最初は恐怖心でジムの扉を開けることさえできなかったが、仲間にも恵まれ、いまでは自主練習をすればするほど強くなれる競技性の虜(とりこ)になった。かつてのチームメートである中野も「たまにボクシングの動画も見せてくれて。すごく楽しそうだし、成長しているのを見るとこっちまでうれしくなります」と笑顔で話すほどだ。
いまの目標は、秋に行われる予定の新人戦での優勝。苦しんだ日々も力に変えて、新たな舞台でまた輝いてほしい。