輝かしい実績をもって早稲田に入り、鮮やかに挫折 中野遼太郎1
連載「4years.のつづき」はラトビア・FKイェルガヴァでコーチを務める中野遼太郎さん(31)です。FC東京の下部組織で活躍したのち、早稲田大学に入学しア式蹴球部に所属。卒業後は単身ドイツへと渡り、以降9年間海外でプレーしました。大学時代、そして海外への挑戦を中野さん自身の言葉で綴(つづ)っていただきます。5回連載の1回目は、大学で味わった苦悩を思い返して考えることについてです。
「いま、うまくいっていない」と思う学生たちへ
僕にとって「大学サッカー」は、ほとんど観客席から声援するものだった。
その観客席は、「あなたは役に立ちません」と分からせるための拷問椅子のようで、そのピッチで行われている「なにか」を、自分と直接関係があるものとして受け入れることは難しかった。たとえば数メートル先で激しくボールを奪い合っているのが、つい昨日一緒に練習した仲間だったとしても、それはどこか遠い、まったく別の、起こってはいけない種類の現実に思えた。だけど毎週、僕はその「起こってはいけない種類の現実」を目にしなければならず、それは身体の一部が削られるような痛みと共に、ゆるやかな無力感を僕に植え付けた。
この連載は「4years.のつづき」というタイトルなので、本来は卒業後に焦点を当てるべきなのかもしれないけれど、僕がその「つづき」について書き進めるためには、どうしても大学生の自分について触れなければならない。消化不良の過去を吐き出して、自分の「うまくいかなかったこと」を眺め直さないといけない。陶芸家がろくろを回すように、目の前に取り出して、グルグルと眺めて、ときに感触を確かめ、文章として形作らなければ、うまく「つづき」に続けられない。
だから僕は、この連載を「いま、うまくいっていない」と感じる学生に届けるつもりで書きたいと思う。出来るだけただの身の上話にならないように、「いまがうまくいっていない」を感じ続けた1人の大学生に戻って、書きたいと思う。
追い抜かれていくのをただ、見続けていた
僕はスポーツ推薦で大学に入学して、プロを目指して、鮮やかに挫折した。
3歳で始めたサッカーは、おそらく周りよりすこし才能があったというその一点だけで、僕に自己肯定感を与え続けてくれた。高校時代は日本代表としてプレーするような選手だったから、大学には特待生のような扱いで入学して、それなりに周囲の期待を受けていたと思う。入学当初、同期からは一目置かれていたかもしれない。けれどそのあとの4年間において、僕は「一目置かれた場所」から一歩も進むことができず、まるで路肩に停車する故障車のように、ただ追い抜かれていく景色を見続けた。
大学生になると、時計の針は高校生の時よりいくらか早く進むようになった。成人式を越えたあたりからは、さらに加速したように思う。いや、実際に加速したに違いない。それくらい大学生活はあっという間に、砂時計の最後の数秒のように勢いよく目減りして、気付けば卒論とか就活とか、そういう「ずっと先のこと」の当事者になっていた。僕はもう10代ではないらしい。すぐに「シャカイジン」になるらしい。
「いつかよくなる」ことはなかった
もちろん僕だって、表面上でそういう物事と折り合いをつけられるくらいには、精神的に成熟していた。大学生にもなれば、ほとんどの学生たちが、部活動とかサークルという人間相関図のなかに上手に自分を当てはめることができるし、組織のなかで役割を果たしていくことを覚える。それはキャプテン、副キャプテン、それ以下! みたいな高校生の部活とは明らかに違って、より自己抑制の効いた社会的な集団になる。
だから、たとえばインカレがどうこう、というような「組織としての目標達成」に激しく一喜一憂することは求められても、たとえば自分が試合に出れるかどうか、というような「個人的なあれこれ」を感情のままに激しく、悔しがったり怒ったりすることは、あまり推奨される行為ではなくなる。
たとえばそれがマグマのような熱を持っていても、鉛を飲んだような気分でも、そして現実に身体に不調を起こしても、それらは内側に留(とど)めておくことが「かっこいい」とされる。あるいは外側に出てしまうことは「かっこわるい」とされる。(みなさんの年代にとって「かっこいいか」ということは、かなり重大な判断基準のように思うし、そしてそれはいつまでもそうあるべきだと僕は思う。)
僕には手の打ちようがなかった。
真剣に悩んで眠れない日々を過ごすことと、その全てを投げ打つ覚悟で「実際に行動に移す」ことには大きな隔たりがある。僕はサッカーに全てを懸(か)けている、と自分でも盲信していたわりに、その解決を時間の経過に頼っていた。もちろんなまけていたわけじゃない。いま振り返ってもまぶしいくらいに、僕は毎日真剣だった。策を講じて、頭を使って、日々決意を新たにした。けれども「じゃあ実際になにをすれば状況が改善するのか」という継続的な行動を求められたときには「いつかよくなる」という言葉で上手に梱包して、そっと棚上げすることを習慣にしていた。時間はどうやら速度を変えていて、「いつか」の期限は刻々と迫っているのに、僕には有効な手が見えなかった。いつまでたっても。
華々しくスタートを切った大学生活
というものの、僕の大学生活の始まりは、決して悪いものではなかった。
というより、かなり華々しくスタートダッシュを切った。と思う。
1年生で、早稲田大学でレギュラーとなり、インカレに優勝した。
大学サッカーに汗を流す学生なら、だらだら説明するより、この一文で多くのことを理解してくれると思う。当時の早稲田は、5人の4年生がそのままJリーガーになり、3年生には渡辺千真(現・ガンバ大阪)、2年生には松本怜(現・大分トリニータ)、というように、各校と比較してもタレントを擁していた年代で、そこに、スーパールーキーの顔をして僕がいた。1年生のわりにはかなり顔が老けていたけれど、それを除けば、かなり順調な滑り出しだった。
断わっておくと、もちろん僕はそれなりに調子に乗っていたけれど、自分を見失っていたわけではなかった。「2年生からは、僕が早稲田の中心選手として活躍する」と決意していたことは確かだけれど、もしあなたがレギュラーとして1年を終えて、翌年の抱負を語るとしたら、これは極めて自然な発想の着地だと思う。
けれど実際には、この「インカレ優勝」は、僕の大学最後の大舞台になった。
そこから先、3年間の大学生活に、僕個人、そしておそらく早稲田ア式という組織にとっても、輝かしい成績は見当たらない。
僕の4years.は、「調子に乗ったヤツが派手に失敗していく物語」ではない。
その要素がゼロだとは言わないけれど、調子に乗らない大学生、というのは、ほえない小型犬のような不自然さがある。僕はもっと淡々と、そして確実に、取るべき道をすこしずつ間違い続けて、やがて修正の利かないところまで達していた。「大学でサッカーをすること」の意味をあまりに履き違えていたのだ。