大学サッカー

連載:4years.のつづき

大学生活の最後に理解した「大学でスポーツをする意義」 中野遼太郎2

4years.のつづき
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2010年、改築される前の国立競技場で開催された早慶戦で(10番が筆者(C) JUFA / REIKO IIJIMA)

連載「4years.のつづき」はラトビア・FKイェルガヴァでコーチを務める中野遼太郎さん(31)です。FC東京の下部組織で活躍したのち、早稲田大学に入学しア式蹴球部に所属。卒業後は単身ドイツへと渡り、以降9年間海外でプレーしました。大学時代、そして海外への挑戦を中野さん自身の言葉で綴(つづ)っていただきます。5回連載の2回目は、大学2年生になっていろいろなことがうまくいかなくなり、不完全燃焼に終わった大学生活についてです。

突然ベンチにすら入れなくなった

2007年度にインカレを優勝したあとの3年間で、早稲田大学ア式蹴球部は、2回監督が交代した。つまり、4年で3人の監督とプレーしたことになる。これはプロ組織ではない大学スポーツにおいては稀有なことかもしれない。4年時にお世話になった古賀監督がその後8年間指揮をとったことを考えても、僕が在籍していた時期は試行錯誤だったことが推測できる。

監督が変われば、あらゆる決定の基準が変わる。
それが当時の早稲田は4年で3回変わって、僕は最後の2回の基準を満たせなかった。
とても簡単に言えば、僕に起きたことはそういうことだった。

「1年生レギュラー」だったはずが、2年生になって、突然ベンチにすら入れなくなる。それはもちろん僕を狼狽させ、怒らせたり悲しませたりした。「これはおかしい、これは間違っている、こっちの方が正しい」。ひとつひとつの決定が気に食わなくて、僕は自分が必要とされないことが、あるいは「あんまり必要とされてない」ことが、毎日とてもとても不満だった。チームメイトからそれに該当する類(たぐい)の視線を向けられることも耐えられなかった。それはもう気が狂いそうなほどに、自分で自分に感心するくらいに、置かれた状況を持て余していた。自意識のカタマリだったと思う。

大きく勘違いしていた僕は、自分の可能性に蓋をしていた

当時の僕が、大きく勘違いしていたことが1つある。

それは「自分とは真逆の信念を前にしたときに、その相手の求める基準を満たそうと努力することは、自分が抱えていた信念を粗末に扱うことにはならない」ということだ。

4年生になり10番を与えられたが、目立った活躍はできなかった(C) JUFA / REIKO IIJIMA

たとえば求められる基準が自分の信念とは反するものだったとき。僕は当時、自分の信念が侵略されたような感情を覚えていた。求められていることが、迎合したら後戻りできない類の、「染まってはいけないもの」のように感じていた。それはおそらく僕がそれまで「自分のやりかた」である程度は順風満帆だったことにも大きく由来するし、そのやりかたの限界がきていたことも暗に示していた。とにかく僕は僕のプレーで、相手を納得させることしか考えていなかった。基準を満たすのではなく、基準に触れることによって状況を改善しようとしていた。

それはもちろん、自分で自分の可能性に蓋(ふた)をして、そのうえから重石を乗せるような行為だった。「僕には一つの方法しか見当たりません」と練習ごとに宣言して回っているようなものだった。求められることに真摯にフラットに取り組むことは、自分の信念を曲げることにも、捨てることにもならない。決してならない。むしろより強固に、多角的に育むことにつながる。かわいい子には旅をさせろ。自分の信念だって、新しい景色と強烈な干渉を必要としている。僕にはそのことが理解できていなかった。

辞めるも続けるも、自分で選択するしかない

前提として大学生には「移籍」がない。「うまくいかないから他大に移籍します!」ということは、大学サッカー界ではほとんど行われない。(仕組み上はできるのかもしれないけれど、それが現実的な選択肢になるとはあまり思えない)。これはよく理解しないといけないところだと思う。「18歳を超えた人間が、実力主義の集団競技のなかで、そこに敗れても4年間は同じ組織で争わなければいけない」というのは、スポーツ的にかなり稀な環境だ。出口は卒業か退部にしか用意されていない。次の場所を用意しない場当たりの退部は、選手としてのサッカーを諦めることに直結する。

だからこそ「4年を費やし大学でスポーツをする」という選択には価値があるのだけれど、素直に、愚直にスポーツに生きるだけでは、その側面には気づけない。

「うまくいっていない」を積み重ねて、あっという間に4年生になってしまった(C) JUFA / REIKO IIJIMA

僕は4年生になった。本当にあっという間に、そうなった。
「いま、うまくいっていない」を丁寧に4年間(正確に言えば最後の3年間)積み重ねて、ついにここまで来てしまった。僕は未だにどうしていいか分からない。もう誰も僕のことを「選手」としては注目していないし、そのことは「選手」しか目標にして生きてこなかった僕の自尊心を静かに締め付けた。誰かが「可能性は、本当に1ミリだってありません」と、スパイクを処分してくれれば助かるけれど、今の僕はそれもまた、自分で選択しなければならない。大学生が「進路を決める」というのは、中学生のそれとはわけが違う。競技を離れるならば、自分でそう選ばないといけない。みんなはどうやって折り合いをつけているのだろう?

「大学でスポーツをする」ことの本当の意味

そういうときに、僕を本質的に助けてくれたのは、サッカーと全く関係のない、ある教授だった。

大学で真剣にスポーツをする意義、というのは、おそらく、その競技の外にある。「大学スポーツは4年間移籍ができない」と書いたけれど、逆に言えば、プロになれば組織の移動によって「自分がそんなに変わることなく」価値を供給できることがある。つまり大学の競技者として同じ組織で4年間取り組むには、自発的で継続的な変化(これはまさに僕が失敗したもの)が求められるのだけれど、その変化を起こすための触媒を、大学は「競技の外に」無限に提供してくれている。「その競技の外のことを、どれだけその競技の中に持ち込めるか」という循環にこそ、大学で真剣にスポーツする意義が潜んでいる、というのが一応僕の結論だ。

そして僕の「自分が考えつくこと」のなかには、もう出口がなかった。思考はもう同じところを何周もして、景色は変わらないのに目が回る。素晴らしいひらめきも、逆転のシナリオも、もうどこにも見当たらない。

けれどもゼミの教授は、僕のサッカーの問題を「まったく別の角度から」切り裂いてくれた。
漁師が魚をさばくように、余分な手つきも、無駄も、過不足もなく(そして提言めいたものでもなく)、サッカーに通ずる、サッカーと関係のない話をしてくれた。ちょっと時間ができたから立ち話をしたくらいの様子で、とても自然に、慣れた様子で。僕の「うまくいってない」を積み重ねた4年間を一蹴してくれた。

最後に学んだ「ひとりで解決できることなど知れている」

だからもし、いま、競技のことで苦しんでいる学生がいたら、大学にはそこに光を当ててくれる人たちがたくさんいることを心に留めて欲しい。言うまでもないことだけど、「大学に通う」ということには限りない意義がある。ゼミ、教授、講義、研究、そういう大学の一コマみたいにすぎる景色は、目に見える意義そのものだと思う。

大学でスポーツをするということの意義が、最後にやっとわかった(C) JUFA / REIKO IIJIMA

面倒臭さや倦怠感が勝利して、あるいはデートの予定が優先されて、その意義の一切を享受しないのもまた学生らしさ全開で輝かしいけれど(皮肉ではなく本当にそう思う)、もしいつかの僕のように「寝られないくらい考えている」のに「継続的な行動に結びつかない」と感じているのなら、どこかの研究室のドアをノックすればいいと思う。そこに座っているのは、何かを継続的に究める道を選んだ人たちで、穏やかな顔(偏見かもしれないが、大学の教授は誰も皆だいたい穏やかな顔つきをしている)の裏には、たくさんの引き出しがしまってある。

つまり僕が大学生活で学んだのは、「僕がひとりで解決できることなど知れている」ということだった。それはそれなりに大きな収穫だった。長いこと僕の意識の根底にあった「大学なんか来なければよかった」という泥のように重たい感情は、最後の数メートルで、すこし形を変え始めた。挫折は挫折。そこに変わりはないけれど、その見えかたは「変えられる」のかもしれない。これからの自分の行動で。

ふと急速に、知らない場所に飛び込んでみたくなった。僕はおそらく、とても狭い物事の中に、自ら進んで閉じこもっていた。世界は、サッカーは、もっと広いはずだ。

卒業したら、海外で選手を目指してみよう。

僕はそう決めて、一路ドイツへ飛んだ。

4years.のつづき