サッカー

連載:4years.のつづき

早稲田大を卒業してドイツへ、がむしゃらに勝ち取ったプロ契約 中野遼太郎3

何のつてもない状態でドイツへ旅立ち、プロ契約を勝ち取った(写真は本人提供)

連載「4years.のつづき」はラトビア・FKイェルガヴァでコーチを務める中野遼太郎さん(31)です。FC東京の下部組織で活躍したのち、早稲田大学に入学しア式蹴球部に所属。卒業後は単身ドイツへと渡り、以降9年間海外でプレーしました。大学時代、そして海外への挑戦を中野さん自身の言葉で綴(つづ)っていただきます。5回連載の3回目は、単身ドイツへ渡り、体当たりで始めた挑戦についてです。

ざわついた日本をあとに、ドイツへ出発

2011年、4月1日。僕は成田空港にいた。
僕は大学を、東日本大震災による混乱の渦中に卒業した。卒業式は行われず、いくつかの旅行は中止され、数週間、大学の友人に会っていなかった。余震は相変わらず続き、日本は文字通り揺れ続け、原発事故に関する情報は四方八方に錯そうしていた。僕は人生において「もっとも友人と過ごすべき」と言っても差し支えない学生最後の3週間を、ほとんどテレビにかじりついたまま過ごし、出発予定日の4月1日を迎えた。

僕がドイツに向かうこと自体に、揺るぎはなかった。
ただし、「そこには強固な決意がありました」というよりは、「もう航空券を買っているから」という事務的で物理的な理由が、その揺るぎなさの大半を占めていたように思う。人の決意にも、慣性の法則は適用される。もし航空券を準備するのが震災のあとだったら、僕はあの状況の日本を離れることを取りやめて、その後の人生はまるごと違うものになっていたかもしれない。些細な順番の前後が、年次のズレが、大きな違いとなってものごとを強制的に動かしていく。それはいまのコロナ禍を生きる学生たちが、身をもって体験していることかもしれない。そして「物理的で事務的な理由」の力はいつだって絶大で、ほとんどの場合で変更が効かない。

航空券を買ったのがもう少し後だったら。些細な順番が人生を大きく変える(写真はイメージです)

早朝の成田空港は、それでも人の出入りが激しく、空港独特の喧騒に包まれていた。

新年度の初日に、何が嬉しくてこんなに大人数が日本を飛び立たなければいけないのか、その一端を担っていることも忘れて疑問に思う。久しく会っていない(ように感じる)同期たちのことが頭に思い浮かんだ。ほとんどが今日「入社式」を迎えるなかで、自分はまさに同日、ほぼ同時刻、片道の航空券を手に出発ゲートにいる。

それは「ちょっと特別なことをしている」という自意識を刺激したあとで、その数倍は大きい焦燥感を連れてきた。僕は「来てください」という招待があって向かうわけではなく「どうですか?」と売り込むために日本を出て行く。明確な目的地も、来週の宿泊先も、誰に会うことになるのかも、なにも分からない。そのわりにスパイクひとつで乗り込む、という清々(すがすが)しさも持ち合わせず、スーツケースもリュックも「なにかあったとき用」の荷物でパンパンに膨らませて、エアラインから重量オーバーの赤シールを貼られる始末だった。

補足すると、その当時、大卒選手の「海外挑戦」は、今よりもずっと少なかった。ほぼ皆無だったと言ってもいいかもしれない。少なくとも早稲田大学の周辺年次にはいなかったから、僕が事前に集められる情報は極めて限定的だった。そのノウハウを紹介しているようなインターネットサイトも、「海外でプロサッカー選手になろう!」と斡旋している会社もほとんど見当たらず(いまではあふれているけれど)、僕は在日ドイツ大使館に何度か通って「ドイツとはどんな国か」という広義な情報を手に入れるので精一杯だった。例えば人口は何人で、語学学校はいくらで、電車にはこうやって乗りましょう、というような。「サッカー的な」情報はひとつも持ち合わせていない。

無鉄砲に「なにもわからない」世界に飛び込んだ

だから、ミュンヘンに到着したとき、僕の前に広がる輝かしい(と思われる)未来に対する唯一の手がかりは「サッカーに詳しいドイツ在住の日本人男性のメールアドレス」だけだった。会ったことも、話したこともない、正体のよくわからない男性。彼にその未来の命運を託せるくらいに、僕は真剣に無鉄砲だった。そして実際に彼は、驚くほど言葉通りに「サッカーに詳しい人」であり、それ以上ではなかった(つまり契約を扱うような代理人ではなかった)ので、僕はそこそこ路頭に迷うことになってしまう。しかしそれが危機的状況だということにすら気付けないくらい、僕は「なにもわからない」世界に飛び込んでいた。先行き、というものを見通すには、経験か予備知識が必要だと思うけれど、僕はそのどちらも持ち合わせていなかったのだ。

ただ旅行者のようにホステルに滞在していたとき、ふと危機にいると思いあたった(写真は本人提供)

11人部屋のホステルに、3週間滞在した。
そのあいだ、僕はひたすらミュンヘン市街を走り回り(通算で何キロ走ったのだろう?)、二段ベッドの寝心地にも慣れてきたころ、正確にいうと4月15日の朝、僕は朝食会場で硬いパンをかじりながらふと、自分がどうやら危機にいることを確信した。同期は入社式を颯爽と終えて、新人研修すら終わりかけている頃合いなのに、僕は旅行者のように寝泊りを繰り返しているだけだ。ミュンヘンの街並みに詳しくなったことのみが収穫で、サッカー的な手応えはほぼ皆無だった。

ドイツ語を勉強するのに、カフェの店員さんにも積極的に話しかけた(写真は本人提供)

このとき、実質的に僕を救ってくれたのは、ポーランドに住むドイツ人だった。彼はサッカーを「職業」にしている人だった(つまり「ただ精通しているおじさん」ではなかった)けれど、だからといって英語もままならない東洋人の世話をするのは、簡単な仕事ではない。もちろん僕は彼とのコミュニケーションを成立させるために、超特急でドイツ語を話す必要に迫られた。そして程度はどうあれ「話せます」と言えるようになるまでは、我ながら早く辿り着くことができたと思う。「真剣に必要に迫られること」が、語学習得における唯一解というのが僕の持論だ。

無心で、夢中でピッチを駆け回らなければならない

そこから3カ月。
僕は数えきれない紆余曲折と、移動に次ぐ移動、そして多くの道場破りのようなテストを経て、旅行者ビザが切れる数日前にドイツの6部リーグに相当するFCポンメルン・グライフスヴァルトと契約を交わした。そこは望んでいたリーグよりもずっと下に位置するリーグだったけれど、「ここで何をしているんだろう?」とは思わなかった。

そういう鎖に繋がれたようなスポーツの捉え方は、大学時代に置いてきていた。誰かが誰かを追い抜いていく景色は、抜いても抜かれても、どこまでも(本当にどこまでも)続いていく。もちろんそれこそが競技スポーツで、競争の美しさであり醍醐味だけれども、「少なくともいまの僕にとっては」サッカーと自分の関係性を取り戻すことが最優先だった。僕はピッチを観客席から眺めるのではなく、駆け回らなければいけない。無心で、夢中で。

こうして僕の10年に渡る海外生活は、限りなく低い発射台からスタートすることになった。給料は同期が日本で受け取るであろう給料の、天引きされる税金側のような額だったし、アパートは見知らぬドイツ人と同居生活で、4000円くらいの中古の自転車をギコギコとかっ飛ばして練習にも向かっていた。

ここがプロサッカー選手として出発点のアパートになった(写真は本人提供)

それでもこの数カ月は、たとえば僕の人生を何等分かに分けたときに、明らかに色鮮やかで、独特の熱量を持った、何物にも代えがたい期間になった。苦労自慢がしたいわけじゃない。お金を稼いだり、注目を集めたり、計画通りに物事が進むことと、等分の色鮮やかさは比例しない。なにより僕は大学の4年間で僕自身の「うまくいかない顔」に見飽きてしまっていて、こういうことが「苦労」のフォルダに入らない状態になっていた。

失敗しても、失敗しても、意気揚々と次の失敗に突進していけるような、カラッと晴れた快活さがあった。21歳の春はあれだけ苦しかったのに、22歳の春にはどこにでも行けるような、正確に言えばどこに行ったっていいんだ、というような気持ちでいっぱいだった。それは僕自身のプレーが変わったわけではなく、僕の「サッカーというスポーツ」を見る角度が変わったのだと思う。

この時期に、競争心と忠実に正対できなかったことで、僕がある意味で「まるく」なり、選手としての可能性に制限をかけたかもしれない、という自覚はある。発射台の低さを受け入れず、もっとギラギラと怒っているべきだったのかもしれない。ある意味で僕は、視点を変えて、角度を変えて、「いわゆるサッカーの実力」以外に寄りかかる軸を心のなかに設立した。それは逃げの一手とまでは言わないけれど、「よりどころ」が気づいたら「逃げどころ」となり、気づいたら言い訳の役割を果たすようになることもある。

だけど僕が4years.を経て、それでもサッカーを愛して仕事にしていくためには、誰も知らないようなドイツの片田舎で、ただがむしゃらにボールを蹴っ飛ばしたあの期間が不可欠だった。

4years.のつづき