好きなことをする人生を描き、レールから降りた スポーツトレーナー・木村匡宏4完
連載「4years.のつづき」から、「IWA ACADEMY」チーフトレーナーの木村匡宏(まさひろ)さん(41)です。木村さんは慶應義塾大学体育会野球部を経て就職した後、岩隈久志(現・読売ジャイアンツ)が監修するIWA ACADEMYの設立メンバーとして活躍されています。4回の連載の最終回は、銀行マンをやめ、IWA ACADEMYを設立した現在についてです。
僕の人生、これでいいのか
24歳の春。スーツにネクタイが、新しいユニフォームになった。グラウンドに出て、バットを振り続けた野球漬けの日々を懐かしむ余裕はない。2003年に慶應を卒業後、旧・中央三井信託銀行に就職すると、すぐに営業マンとして、勤務地となった大阪北部の住宅街を歩き回った。資産を持つ高齢者から決して裕福とは言えない家庭まで、様々なクライアントのもとへ足を運んだ。遺産相続などの仕事の話だけではなく、他愛のない雑談、そして人生訓まで真摯に耳を傾け、先達から多くを学ばせてもらった。経済的に豊かでも、必ずしも幸せとは限らない。入社して半年が過ぎたころだ。定年まで会社で過ごす我が半生を想像した。
「このままでは僕の人生、あっという間に終わる。どう考えても、銀行で人生を終える気にはなれない。そのとき、好きなことをやって生きていきたいと思ったんです」
具体的な将来像は描けていた。パフォーマンスコーディネーターである。漠然としたものではない。中学生時代に野球専門誌の記事に衝撃を受け、大学時代には「上達屋」で直接指導を受けた手塚一志さんの下で働く算段を立てた。社会人になっても恩師との付き合いは続いており、仕事のイメージはできていた。「当時、勝手に思い込んでいたんですよ。手塚さんの理論を誰よりも分かりやすく教えられるのは、僕しかいないって(笑)」
野球に打ち込んだ青春時代をサポートしてくれた父親に連絡すると、いきなり電話越しに怒鳴られた。「銀行をやめることが、どういうことを意味するのか分かっているのか。ふざけるな」
自らの人生の選択である。簡単に折れるつもりはなく、初めて親子喧嘩(げんか)をした。それから父親とは何度も話し合い、1年半近くかけて理解してもらった。「最後は『お前のやりたいようにやれ』と言ってもらいました」
日給2000円からスタート
入社してから1年11カ月で銀行を退社。荷物をまとめて、大阪から東京に戻り、念願の上達屋へ転職した。銀行員からの転身である。まずは下積みが必要だった。日給2000円からスタート。交通費が出なかったため、電車の往復だけで給料は消えた。住まいは中野区で一人暮らししていた5歳下の妹宅に居候。頭を下げて、六畳一間の部屋に転がり込んだ。「あのとき、妹が『いいよ』と言ってくれなければ、いまの僕はないです」
ギリギリの生活を続けながら修行を積むこと3カ月。師匠の課す試験にクリアし、ようやく一人前として認められた。異例の早さでの合格だった。クライアントを担当し、レベルを問わず幅広い年齢層の指導を始めた。上達屋の顧客にはプロ野球選手もいる。08年、広島カープから米国のロサンゼルス・ドジャースに移籍したばかりの黒田博樹投手が上達屋に訪れたことは、いまでも鮮明に覚えている。手塚さんと一緒にメジャーリーガーの投球フォームをチェックしている横で、小学生たちに体の使い方を教えていた。「黒田さんと野球少年が一緒にいる空間って、すごいなと思ったんです。こういう施設は日本にあまりありません。このときの経験が、IWA ACADEMYをつくる原点になっています」
その後、パフォーマンスコーディネーターとして経験を積みつつ、医学的なアプローチから助言できるよう、日本総合医療専門学校に3年間通う。国家試験を通過し、柔道整復師の資格を取得した。
そして11年3月11日、東日本大震災。生まれ育った福島が一変した。ここで再び残りの人生について考え直す機会が訪れる。スポーツを通して復興支援活動をしている中で、日本人メジャーリーガーや多くのプロ野球選手をマネージメントするB-creative agencyの内田康貴代表と出会う。トップアスリートの経験値や知恵を子どもたちに伝えていきたいという思いで、意気投合。都内に誰でも通えるスポーツアカデミーを作るという構想へと発展し、16年3月、東京・四ツ谷にIWA ACADEMYを設立する。
まずは、施設の監修者で当時シアトル・マリナーズに所属していた岩隈のロサンゼルスの自主トレーニングに付いていき、岩隈の投球術や野球選手としての考え方を学んできた。アカデミーではいま、多くの子どもたちにトップアスリートが培った知恵を伝えている。
プロも学生も指導の基本は同じ
アカデミーでは、多くの子どもたちに岩隈のイズムを伝えている。16年春の選抜高校野球大会でも存分に生かされた。木村さんは小豆島高校(香川)の外部コーチも務めており、制球難に苦しんでいたエースの長谷川大矩(ひろのり)に岩隈の言葉を授けた。
「ピッチングとは打者にバットを振らせること。最初からアウトコースのギリギリなんて狙わなくていい。まずはストライクゾーンを通すことが優先。だからブルペンでは、ど真ん中に投げる練習がとても大切。ゲームでは、ひるまずにストライクゾーンに通すこと。うしろには守ってくれている味方がいるんだから。バックを信頼するのがエースの仕事だ」
初出場となった甲子園では初戦で釜石高校(岩手)に1-2で惜敗したものの、一人でテンポよく投げ抜いた。82球での2失点完投。四死球はわずか1。1試合に180球ほど費やしていた左腕が、見違えるような成長を見せた。小豆島高校での指導は、選手たちにとっては画期的なものだったのだろう。教え子の植松弘樹は卒業後、関西学院大に進学して学生コーチとなり、木村さんから教わったトレーニングを現・阪神の近本光司に教えていたのだ。いまは巡り巡って、セ・リーグの新人最多安打記録保持者は木村さんの顧客の一人となっている。体の使い方やフォームに万人共通の公式などは存在しない。
「個々の能力を引き出す手がかかりを見つけられるかどうかです。人によってパワーを出す方法は違います。感覚に根ざした体の使い方はすごく大事になります。いろんな人にパワーポジションに沿ったものを伝えていきたい」
あこがれの王貞治さんに指導を請い
中学生のときに、偉大なる背番号1のビッグアーチをテレビで見たときから、体の使い方の原理を追い求めてきた。それが、現在の職業に就くきっかけとなった。パフォーマンスコーディネーターとなった後、元・巨人の王貞治さん(現・ソフトバンク球団会長)のミュージアムを訪れて、世界最多の868本塁打という前人未到の記録が生まれた理由を知り、改めて先人の言葉に感銘を受けた。「俺はただホームランを打ったときの感触が忘れられないから、野球を続けてきたんだ。あの感触を何回も何回も味わいたいと思った」
やはり、感覚である。血のにじむような素振りも、それをつかむためにしてきたのだろう。昨年10月、あるイベントで幸いにも、そのレジェンドと話す機会に恵まれた。わずか5分だったが、サインよりもまずバットを手渡し、バッティングのワンポイント指導を請うたという。世界のホームラン王からバットを握る位置を指摘され、素直に大きく頷(うなず)いた。
「僕は死ぬほど感動しました」
あこがれの人との対面を振り返る41歳の顔には、子どものような無邪気な笑顔が広がっていた。教え、教えられる木村さんの人生はまだまだ続く。