徳島でプロ野球選手を夢見た少年が、導かれるように駒澤大へ進んだ 服部泰卓1
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。先輩たちは4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ16人目は元プロ野球千葉ロッテマリーンズのピッチャー、服部泰卓(やすたか)さん(37)です。徳島県立川島高校から駒澤大学へ進学、トヨタ自動車を経てプロ入りしました。引退後は講演活動などで野球の魅力を伝え続けています。野球応援団長の笠川真一朗さんが取材・執筆を担当しました。4回の連載の1回目は、初めてプロのレベルを知った高校時代と、大学に入るまでの話です。
小柄な左ピッチャーだった服部さん
服部さんはいつも僕に大切なことをたくさん教えてくれる方です。「服部さんの教えをたくさんの人に知ってもらおう。それで人生の何かが変わる人がいるかもしれない」と思って、取材をお願いしました。
平安高校(現・龍谷大平安高校、京都)の先輩であるアーティストの強(つよし)さんがつないでくれた縁で、僕は服部さんと出会いました。服部さんのプロ時代の登場曲は強さんの「カーテンコール」。僕が芸人時代に強さんのライブで前説をさせてもらったことがあって、そのときに服部さんが見に来られていたのです。そこで挨拶(あいさつ)させてもらったのがきっかけで、一緒にお酒を飲んだり、プロ野球観戦に行ったり。服部さんが主催した長野での野球教室に帯同させてもらい、実際に球を受けさせてもらったこともあります。
僕は服部さんと出会ってから、自分の人生が大きく変わったと実感してます。あらゆる物事の考え方やとらえ方が前向きになりました。服部さんの野球人生と、目標達成に向けてのプロセスはすごく勉強になりました。身長173cm、体重71kgと比較的小柄な左ピッチャーです。大事なのは、体のサイズじゃなくて脳と心のサイズ。服部さんの話を聞いていると、つくづくそう思わされます。
高1で初めて、プロのレベルを知る
服部さんは1982年に大阪で生まれ、仲のよかった友達の影響で小学1年生で野球を始めます。お父さんの仕事の関係で全国を転々とする中でも「野球だけは楽しくて仕方がなかったから続けた」と、すっかりのめり込んだそうです。小5からは、お母さんの故郷である徳島で高校卒業までを過ごします。中学は学校の軟式野球部。「プロになりたいなぁ、と思ってるどこにでもいる野球少年だった」と、当時を振り返ります。
かつての強豪だった県立池田高校にあこがれ、進学を考えます。しかし中学の野球部の顧問の先生に、甲子園から遠ざかっていた池田高校の現状を聞かされ「考え直さないか?」と提案されます。悩んだ結果、県立の川島高校に進学することにしました。「これから期待できるかな」「自分が引っ張って甲子園に」という気持ちで入学した服部さんでしたが、「言い方はよくないと思うけど、思ったより『そのへん』の高校だった(笑)。思い描いてる高校野球とはかけ離れていて、中学から高校に上がったのにギャップをまったく感じなかった」。思い出し笑いをしながら言いました。
ただのプロを夢見る少年だった服部さんに、忘れられない出会いが訪れたのは高1の秋。阿南工業との試合に代打で出場した服部さんは、相手のピッチャーに衝撃を受けます。元読売ジャイアンツの條辺剛さんです。球が速すぎて見えず、大人と子どもぐらいの差があった、と服部さん。この時に初めて「あ、こういう人がプロにいくのか」と思い知ったそうです。
「プロ野球選手になりたい、ってずっと思ってたけど、高いレベルの存在を間近で見たことがなかった。初めてハッキリと明確にプロのレベルを見た気がした」と振り返ります。そして「カッコいいな、こんな人になりたいな」とあこがれ、改めて強くプロの世界を目指すようになりました。
名門駒澤大学、太田監督との出会い
しかし高校時代は目立った活躍はできず、チームとしても3年生の春の大会での県ベスト4が最高成績でした。もちろんプロからも声はかかりませんでした。それでも服部さんは「プロになりたい」と思い続けました。周りの同級生たちは将来のことや進路を考え始めていましたが、服部さんは「よくも悪くも疎かった」と話す通り、子どものころの夢を持ち続けていました。
高2のときにお父さんを亡くしていた服部さん。大学で野球を続けるためには、金銭的にも「特待生の推薦をもらう」という選択肢しかありませんでした。あるとき、駒澤大学の関係者が左投手を探して練習を見に来たそうです。
服部さんは関係者の方に家庭の事情を説明すると「残念ながら特待生の枠は強豪校のいい選手をとるためにあるから、君のようなそこそこのピッチャーに使う枠じゃない。この話はなかったことに」と告げられます。服部さんは「当時は大学野球のことなんて何も知らなくて。別に駒澤にいきたいとも言ってないし、事情を説明しただけなのに断られたみたいになった」と笑います。
しかしその後、当時の駒澤大の監督で名将として知られる太田誠さんから「同じ県の高校に練習の見学に行くから、もういちど服部くんを見せてもらえないか?」との連絡が入ります。服部さんは「特待生じゃないといけないし、別にあこがれの学校でもないしと思ってたら、高校の監督に『あの太田監督が言ってるんだぞ!』って、ものすごく怒られて(笑)。でも当時は何も知らなかったから。仕方なくだったよね」と、しぶしぶ違う高校のグラウンドまで行って、太田監督に投球を見てもらうことになりました。
ブルペンを借りてキャッチボールをしていると、太田監督がキャッチャーの後ろで見ていました。そろそろキャッチャーに座ってもらおうとしたときに「オッケー、ありがとう。もう大丈夫!」と、太田監督はバッティング練習を見に行ってしまいました。「1時間半もかけて別の高校に行ったうえに、ブルペンの投球すら見てもらえない。キャッチャーが座る前に力量を計られた。『あ、こんなもんか』と思った」。服部さんは少し嫌な思いをしたそうです。
まさかの「特待生で」、でも決め手に欠けて
その後、太田監督に挨拶(あいさつ)に行って帰ろうとすると「今日はどうもありがとう。君は非常によかったよ。腕の振りかぶりがいい。小さな体だけど、ものすごく大きく見えたよ。そして何より目がいい。君は目力(めぢから)がいい。お疲れさま」と言われ、その日は何もないまま帰ったそうです。その数日後、太田監督から川島高校の野球部の監督に「ウチで面倒を見ます」と連絡が入ったのです。特待生じゃないと進学できない服部さんが伝えると「それも分かったうえで面倒を見る」と、駒澤大から正式に特待生として推薦をもらうことになりました。
ただ、服部さんは駒澤大にピンと来ておらず、仲のいい友だちが行くことに決まった愛知の大学に進もうかと思っていたそうです。高校の監督に「愛知の大学に進みます」と伝えたら、「お前は名門・駒澤大学の特待生という肩書が重たいのか?」と、思ってもみなかったことを言われたそうです。友だちが行くから、とは気まずくて言えない服部さん。すると監督は「太田監督を生で見ただろ? あの東都の厳しい環境の中、太田監督のような名将のもとで野球をやることは絶対に人生の財産になる。そういう人なんだ。こんなに素晴らしいチャンスがあるなら駒澤に進むべきだ」と言われ、ハッとしたそうです。
「よくよく考えてみたら、僕はレギュラー争いをしたことがなかった。勝ち取った経験もないし、挑戦したこともない。強豪で揉(も)まれたこともない。だから、駒澤で挑戦するのが面白いんじゃないかと思った。この4年間が絶対に財産になると思って、駒澤に決めた。ここまで話して分かると思うけど、駒澤に入らない選択肢はいっぱいあった。それでも導かれるように駒澤の方に足が進んでいった」
20年ほど前のことです。大学野球の情報も、いまほどあふれてはいません。服部さんには当時、どの道が正解に近いか見えていなかったのです。それでも自分の人生のためにはどの道を歩けばいいのか、人からヒントをもらいながら、正解に近い道へと導かれていきました。