【応援団長コラム】野球大好き芸人、笠川真一朗と申します!!
4years.では、かつて大学時代に体育会で競技に没頭した著名人の方にお願いして、経験競技の「応援団長」になっていただくことにしました。ご自分の経験を踏まえたコラムを書いていただいたり、選手に直接取材してもらったりできればと考えています。野球の応援団長に就任いただいたのは、龍谷大平安高校と立正大学野球部で7年間マネージャーを務めた笠川真一朗さん(25)です!!
少し珍しい野球人生を送って
このたび4years.の野球応援団長に就任いたしました、ワタナベエンターテインメント所属の野球大好き芸人、笠川真一朗と申します!!
現地観戦した試合数は、高校野球、大学野球、社会人野球、プロ野球のすべてを合わせて、2018年から昨日(6月5日)までで124試合になります!!
自分でも怖くなるほど、日々、野球を楽しく見させていただいております!!
と言いましても、まだまだ知名度のない芸人です。4years.読者のみなさまは、僕のことをまったく知らない方がほとんどかと思いますので、コラムの初回は自己紹介として、僕が送ってきた少し珍しい野球人生について書かせてもらおうと思います。
こんな珍しいヤツもいるんだ、と気軽に読んでもらえたらうれしいです。
奈良に生まれ、野球で育った
穏やかな奈良県で、元柔道部の母と元高校球児の父から命を授かった僕は、幼いころから近鉄バファローズと甲子園に魅了され、野球にゾッコン。
小学校から大学まで野球を続けました!!
小学生のころは軟式野球チーム。中学は生駒シニアという硬式野球チームに所属し、高校は甲子園の最多出場回数を誇る龍谷大平安高校(京都)に入学。大学は東都大学野球連盟に所属する立正大学に進み、松屋銀座百貨店に就職して2年目を迎えたころ、ワタナベコメディースクールといういわゆるお笑い養成所に通い、卒業と同時にワタナベエンターテインメントに所属させていただき、百貨店を退職して、現在はお笑い芸人として悪戦苦闘しながらアルバイトをして何とか生計を立てています。
経歴だけ見ると強豪校で野球を続けて一部上場企業に就職するというそれなりのエリート(?)に見えますが、いま振り返れば、どこで転落していたか分からない波瀾万丈の人生だと思います。
守備や走塁はからっきし、でも二つの武器があった
僕の人生で大きな転機となったのは、中学生のころです。
僕はボールを投げる能力や、打って遠くに飛ばす能力には長けていましたが、守備や走塁などがからっきしダメでした。どうすれば野球がうまくなるのかってことを考えずに「絶対にプロ野球選手にはなれない」と思い込んだりして、少しひねくれた野球少年でした。中学時代の生駒シニアで、当初は試合に出られてたんですが、大事な試合前に体育の授業のバレーボールで突き指をしたり、サッカーで肉離れをしたり……。自らチャンスを手放し、レギュラーの座を後輩にやすやすと明け渡して……。情けないばかりでした。
ただ、僕には誰にも負けない武器がありました。
「大きな声」と「底抜けの明るさ」です。
両親がお金を払ってくれて生駒シニアで野球ができるうえに、両親は毎週練習場まで送ってくれたり、チームの手伝いをしてくれたり。だから僕は、試合に出られなくても、なんとか両親にかっこいいところを見せたいと思っていました。そんなとき、当時の監督の勧めもあり、「三塁ランナーコーチ」に専念してチームに貢献する道を選びました。それから僕は、少しチームメイトとは違った視点で練習に参加していました。気がついたことがあれば、すぐ仲間にアドバイスするようにしたんです。
三塁コーチャーは、僕にとっては「自分の力を一番発揮できる場所」という誇りを持てるほどやりがいのあるポジションで、それまでと違った野球の楽しさを知ることができました。
そして、運命の日が訪れます。
あこがれの原田監督が声をかけてくれた
僕が所属していた生駒シニアの同級生には、現・巨人の今村信貴(太成学院高校)と太田翼(龍谷大平安高~近畿大学~日本生命)という、関西では名の知れ渡った「ダブル左腕」がいました。そのふたりを視察するため、龍谷大平安高校の原田英彦監督が僕たちの練習場にいらっしゃったのです。
僕は当時から高校野球が大好きだったので「うわ、平安の原田監督や!! でっかあ!!」と胸が高鳴ったのをいまでも覚えています。
原田監督は今村と太田の投球練習を見るために、ブルペンにベッタリと張り付いていらっしゃいました。グラウンドでは実戦を想定してランナーをつけたノックの最中。僕はいつも通り、三塁ランナーコーチのポジションにいて、常にチームメイトに対して大声を張り上げていました。
すると原田監督は僕に「お前ずっと何してんのや。なんで練習に入らんねん。」とおっしゃいました。「ヘタクソで試合は出られないんですけど、試合に勝ちたいんでランナーコーチをやってます」と、緊張しながら答えました。
もう10年も前のことですが、このときのことはハッキリ覚えています。
原田監督は「お前みたいな中学生見たことないわ!! ええやんけ、頑張れよ!!」と言ってくださいました。
身体が震え上がるほどうれしかったです。その日は家に帰ると父親に「原田監督に褒められてん!!」と言って、ニヤニヤしていました。
そして次の週、大会で対戦するかもしれない相手の偵察をしに、大阪のとある球場までチームみんなで行きました。
そこに原田監督も来られていたので挨拶(あいさつ)をすると「お父さん、お母さんは一緒に来てるか? 話があるから呼んできてくれ」とおっしゃいました。
何のことか分からないまま、僕は両親を呼びに行って、原田監督のところに戻りました。
「お前、ウチでマネージャーやらへんか?」
そう、おっしゃいました。
「はい、やります!!」
即答しました。
平安高校3年でかなった夢
僕は昔から、甲子園に死ぬほどあこがれていました。夢に見ていました。
でも自分で自分の実力や限界は、中学生ながらに分かっているつもりでした。
決して努力をしていなかったわけではありません、練習しても練習しても「こいつらには絶対勝てない」という選手が身近にいたのです。
でもそのおかげで三塁ランナーコーチという自分の居場所を見つけることができたのです。
そして僕は「あの平安で、あの原田監督の下で、マネージャーとして甲子園に行く」という目標を胸に、創部100年を超える超名門である龍谷大平安高校野球部に、史上初めてマネージャーとして入部しました。
高校3年生の最後の夏、監督やコーチ、チームメイト、応援してくれた家族のおかげもあり、夢の甲子園にマネージャーとして出場するという自分の夢をかなえました。
それから気づけば、高校で3年間、大学で4年間。
計7年間、硬式野球部のマネージャーを務めました。
プレイヤーとしてではなく、マネージャーとして得た一生忘れない大切な経験や思い出は、今後4years.でたっぷり書かせていただきます。
野球に育ててもらったひとりの人間として、またひとりの野球ファンとして、スポーツの魅力、野球の魅力を自分なりの言葉でしっかり発信していきますので、みなさまにお付き合いいただければうれしいです!!
今後ともよろしくお願いします!!