ドッジボールと牽制~志村亮さんを取材して
大学スポーツで名をはせた方に当時と現在の話をうかがう連載「4years.のつづき」。第1弾はかつて慶大野球部の大エースだった志村亮さん(52)でした。今回はフリーライターの庄司信明さん(59)に取材後記を執筆していただきました。
新米記者の心に残った一級品のコントロール
志村亮投手を神宮球場で初めて見たのは、1987年春のシーズンだった。慶大の3年生となり、押しも押されもせぬエースに成長していた。こちらは新米の新聞記者。毎日、先輩記者の指導を受けながら「戦評」なる記事に悪戦苦闘していた。まだ記者が原稿用紙に鉛筆を走らせていた時代だ。
制球力が抜群だった。それは、自分の思ったコースに自分の思った球種を投げ込んでいる、という感じだった。その後、私が生でプロ野球を見るようになって、制球力に関して「これがプロか」と唸らされた投手は何人かいた。早稲田のエースとして志村と同時代に戦った小宮山悟(次期早大監督)、西武時代の工藤公康(現プロ野球ソフトバンク監督)、巨人の桑田真澄(現野球解説者)……。いま振り返っても、志村は生命線であるコントロールに関してはプロの選手と遜色なく、確かに一級品だったように思う。
3年の春、志村は10試合に登板して7勝を挙げ、自身2度目となる勝ち点5の「完全優勝」を経験する。「あのときは、チーム全体に風疹がはやってて、哲さんまでもかかってしまい、僕が連投、連投となりました。哲さんのおかげで余計に勝たせてもらった、ということがありました」と笑う。「哲さん」とは学年が一つ上で、当時慶大の二枚看板として志村とともに活躍していた鈴木哲投手(現プロ野球西武球団本部・編成部)のことである。私は今回の取材で志村さんからこの話を聞いたとき、そういえば鈴木投手もプロ入りを拒否し、「大きな会社で一大プロジェクトを手掛けてみたい」というようなことを言っていたなあ、と思い出していた。
マウンドではいつもポーカーフェイス
志村は牽制(けんせい)もうまかった。特に一塁への牽制はピカ一だった。右足の上げ方が絶妙で、軸足の左足と交錯しているかどうかは紙一重。当時の慶大助監督で現在「先輩理事」を務める綿田博人氏が言う。「志村が牽制球を投げると、審判もボークとはいえなかった。志村は審判をうまく味方にしてたね」。その牽制のルーツは小学校時代のドッジボールにあったと、今回教えてくれた。「地域のドッジボール大会があって、小学生ながらこっちの人を狙っているようで、実は別の人に当てにいったりすることがよくありました。そういう技を楽しんでたんでしょうね。牽制はその延長のようなものです」
マウンド上の志村は、いつも冷静でポーカーフェイス。これは桐蔭学園高時代からの教えであり、自分から意識してやっていたことだったという。「要は相手にスキを与えないということ。喜怒哀楽の激しい投手もいますが、そういう投手は調子に乗らせると嫌ですけど、気分が乗ってないときは、『よーし、いまだ』と、相手に隙を突かれてしまう。そこの部分をできるだけわかりにくくするためです」「牽制の話でいえば、こっちが冷静でいると結構ランナーの隙が見える。その瞬間を狙うと刺せるわけです」。だから牽制アウトはほとんど狙ったものが多かった。
志村が大学最後のシーズンを終えるころだった。神宮球場の記者席に慶大野球部OBで、学徒出陣の最後の早慶戦にも出場、卒業後は毎日新聞の野球記者となり、その後も雑誌の執筆などで東京六大学リーグを当時で40年以上見続けていた松尾俊治氏(故人)が言った。
「戦後の慶大の左投手でナンバーワンは誰だと思う? 間違いなく志村亮だよ」
あの言葉から30年。その地位は、いまだに揺るぎないと思う。