陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

地元・広島の応援を力に変え、世界で戦うために渡米 エディオン・木村文子2

木村は11年、エディオンに入社した(12年の織田記念、撮影・矢木隆晴)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多い。学生時代に名を馳(は)せた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、それらを社会でどう生かしているのだろう。「4years.のつづき」を聞いてみよう。2シリーズ目は、昨年の世界陸上女子100mハードル(H)で日本勢初の準決勝進出を果たした木村文子(30歳、エディオン)。今回は木村が社会人として立ち向かった陸上についてです。

前回の記事「高校教師になりたかった」はこちら

広島に癒やされて

木村は2010年6月、大学4年生のときの日本選手権4位入賞をきっかけに実業団を志したが、当時は東京オリンピックに向けた現在のような盛り上がりがあるはずもなく、関東には日本4位の女子ハードル選手に声をかけてくれる企業はなかった。ほかの地域に行くという選択肢もあったが、それが自分のスタイルにあっているのかと疑問を感じた。木村は横浜国大で過ごした4年間、一つの目標に向かってみんなで考えて取り組み、結果を出してきた。実業団では自分との戦いになる。一人で戦うのは自分に合っていない気がした。

そう考えたときに、地元の広島で女子陸上競技部のあるエディオンが浮かんだ。社会貢献に積極的な会社というイメージがあった。なにより、「地元のために」「応援してくださる地域の方々のため」という思いをより強くもてる環境の方が、競技へのモチベーションを高く維持できるのではと考えた。

11年、エディオンに入社した。試合には家族も応援に来る。「家族は広島に帰ってきてほしいと思ってたようです。父も私が選手になるなんて思ってなくて、喜んでくれてました」。また、木村はプロ野球広島カープの緒方孝市監督がまだ選手だった当時からのカープファン。17年のクライマックスシリーズでは、カープのユニフォームで始球式をした。厳しい世界で戦うために、木村自身がふるさと広島に癒やされるのも大切なことだったのだろう。

エディオンの短距離選手はそれぞれの環境で練習する。そのため、まずは広島での練習拠点が必要だった。高校時代に練習でお世話になった広島経済大学に願い出て、学内のグランドを借り、ときには男子学生と一緒に走った。当初は練習メニューを自分で考えていた。その環境下で木村はロンドンオリンピック100mHの切符を手にし、12年8月に出場した。その後も、13年7月にアジア選手権で優勝、14年9~10月の仁川アジア大会で銅メダルを獲得。ふたつのメダルは自信になったが、アジアより上のステージを目指すのであれば、自分一人の力では無理だと悟った。

アジアでは勝てるようになった。木村はその上を目指した(14年の仁川アジア大会、撮影・竹花徹朗)

アメリカでは「要領が悪すぎる」

当時、エディオンには川越学監督(現・資生堂ランニングクラブ監督)がおり、長距離選手は毎年、アメリカ・ニューメキシコ州アルバカーキで高地トレーニングをしていた。強い人のところで練習したい。海外に興味を持っていた木村に川越監督は「すぐに行きなさい」と背中を押し、14年にアルバカーキへ初の海外遠征を経験した。「例えば国際大会の案内がきたとき、日本的な考え方だったら『体調を崩すからあまり行かない方がいいよ』ということになるんですけど、川越監督は『海外のトップ選手は海外を転戦しながらも自分の体調を整えてレースに臨んでるんだよ。だから行きなさい』って言ってくださいました」。自分をバックアップしてくれる会社と監督の理解があり、木村は世界に挑む気持ちが強く持てたという。

14年からは男子110mHの世界記録保持者であるアリエス・メリットのコーチについている。初めは英語でコーチとコミュニケーションをとることに戸惑いがあった。ただそれ以上に、木村はそれまで一人でやっていたため、自分の意見が強く出てしまい、どこまでコーチと自分の考え方を共有していいのか分からなかったという。コーチの指導で何度も指摘されたのはオンオフの切り替えだった。「メリハリをつけてほしいのに、私にはオフがないって言われました。『要領が悪すぎる。頭を使って練習してください』って、すごく怒られました。休むことが悪いことだっていう意識が自分の中にあったので。でも、『休みとトレーニングがうまく合わさった状態じゃないと成功は生まれない』ということを何度も教えられました」

「アメリカでは何度も怒られました」と笑う(撮影・佐伯航平)

それまでの木村は、不安になってとりあえず練習をしてしまうところがあったという。大学時代に取り組んでいたメニューに、さらにメニュー加えていた。その練習で結果が出ていたため、やめる勇気がもてなかった。いまはコーチの指導の下、オフを踏まえた練習に切り替えている。木村は13年9月の全日本実業団で転倒し、1カ月程度練習ができないことがあったが、それ以降は大きな故障をしていない。「あのままだったら、ここまで競技を続けられてないと思います。体も消耗品なので、ずっと同じような練習をしてたらどんどんすり減っていくばかりだったろうなって」

そして昨年の8月、木村はロンドン世界陸上100mH予選2組で13秒15の4着に入り、同種目では世界陸上で日本勢初の準決勝進出を果たした。奇しくも会場は5年前の12年、木村がロンドンオリンピックで悔し涙を流したロンドン・スタジアム(旧オリンピック・スタジアム)だった。

●日本を代表するハードラー・木村文子さんの「4years.のつづき」全記事 

1.高校教師になりたかった 2.世界と戦うため、アメリカへ 3.失意のち輝きのロンドン 4.もう陸上と自分は切り離せない

4years.のつづき

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