陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

あと一つで逃した学生駅伝3冠、初マラソンで出した学生新記録 藤田敦史3

98年の全日本大学駅伝、アンカーで初優勝のゴールテープを切る藤田さん(撮影・朝日新聞社)

連載「4years.のつづき」のシリーズ15人目は、元マラソン日本記録保持者の藤田敦史さん(43)です。駒澤大学でエースとして活躍し、初マラソンで学生記録を更新。2000年には日本新記録を樹立しました。現在は母校の駒澤大でコーチを務めています。4回の連載の3回目は、最後の箱根駅伝と初マラソンについてです。

駒澤大で大八木弘明コーチと出会い、つかんだ自信、エースの自覚 藤田敦史2

あこがれの渡辺康幸さんが「お前すごいね」

藤田さんは2年生の箱根駅伝に続き、3年生でも2区を走った。単独走でも押していけるという走りの特性を生かすなら、もしかしたら復路向きだったのたかもしれない。それでも本人は2区に思い入れがあった。「やっぱりエースが走るのが2区だって、小さいころから箱根駅伝を見て思ってたんで」。上からも下からも認められてるんだから自分がやらないと、という気持ちもあった。1998年、2度目の2区は区間2位だった。

箱根が終わると、2月の熊日30kmロードレースに照準を合わせた。藤田さんは大八木弘明コーチ(現監督)に「マラソンをやりたい」という意向を伝えていたが、「いきなりマラソンなんて、そんなに甘いもんじゃない」と言われた。熊日30kmを1時間30分台で走らないとマラソンはやらせない、と。当時の学生記録は、前年に順天堂大の三代(みしろ)直樹(現・富士通コーチ)が出した1時間31分台前半。「ハードルが高いな」と感じたが、結果は1時間30分21秒、学生記録を大幅に更新しての2位。優勝はエスビー食品の渡辺康幸(早稲田大)だった。

「うれしかったですね~」と今でも笑顔で語る(撮影・藤井みさ)

藤田さんにとって、3歳上の渡辺さんは箱根のスターであり、あこがれの人だ。そんな雲の上の人が「お前すごいね」と声をかけてくれた。「最後の5km、お前のほうが速いよ」と。マラソンで問われるのは、終盤でいかにペースを落とさずに維持できるか。最後にペースが落ちなかったということは、それだけ自分の中にマラソンへの適性があるということだ。「あこがれの人から言われて、がぜんやる気になりました。めちゃくちゃうれしかったです!」と、21歳のあの日に戻ったかのような心からの笑みで言った。

2区を走りたかったけど、自信がなかった

そこからはチームの練習に取り組みつつ、徐々にマラソンに向けてのトレーニングも採り入れた。チームが距離走のときは、みんなの走る距離プラス5kmといったように長い距離を踏むようにした。初マラソンは4年生の3月、びわ湖毎日マラソンと決まった。

最後の箱根で4区を走った。本来ならエースである藤田さんが3年連続で2区のはずだったが、12月に入って貧血の症状が出て、まったく走れなくなってしまったという。藤田さんと同期の佐藤裕之(NEC~富士重工・スバル)も10000m28分台の選手だった。

どちらかが2区を走る。大八木コーチからは「お前たちで決めろ」と言われた。選択肢は2区か4区のどちらか。佐藤さんは「お前がいかないと。いくら自分に力がついたとしても(2区は)お前じゃないか」と言ってきた。チームはこの年、出雲、全日本と優勝して「3冠」がかかっていた。藤田さんは2区を走りたい気持ちはあったが、自分が2区にこだわったせいで3冠を逃すのは絶対に嫌だという気持ちもあった。練習が積めていない藤田さんには自信がなかった。「2区のすごさは2回走って分かるので、練習を積んでない人間ができるほど甘くないって、不安でした。『自分がいく』とは言えませんでした」。結局決めかね、大八木コーチに「言われたところを走ろうと思います」と二人で言いに行った。その結果、佐藤さんが2区、藤田さんが4区を走ることになった。

チームのことを考えたら、2区を担当する自信が持てなかった(写真は昨年の夏合宿、撮影・藤井みさ)

「あとから聞くと、ある程度温情もあったみたいです。あの年は『三代がすごくいい』『2区にくる』という情報がありました。私は初マラソンを控えていたので、『藤田には三代に大差をつけられて負けるという悪いイメージは持たせたくない』というのがあったみたいです。あれだけの人に、そこまで気遣いをさせてしまったのかと、それを聞いて思いました」

結果的に藤田さんは4区を走り、1時間0分56秒で区間記録を更新した。それでも駒澤大は総合2位で3冠を逃した。もし藤田さんが2区だったら? 「あとから考えれば、私が2区にいってたほうがチームとしたらもしかして……、とは思います。でもそのときは思えなかったですね。4区だったからいけた、というのもあると思います。気持ち的に楽でしたから」

意地だけでマラソン学生記録を更新

箱根駅伝の4日後には、初めての40km走。マラソン練習を「めちゃくちゃ楽しかった」と振り返る。35kmからいわゆるガス欠になり、徐々に視界が狭まってきて、手に力が入らなくなってくる。その瞬間でさえ「きたきたきた~! これがガス欠か!」と、ワクワクのほうが大きかった。次はガス欠にならないようにしようと、普段のジョグを90分から120分に。マラソン仕様の体づくりに取り組んでいった。インターバルもいつもよりはるかに多い本数をこなし、だんだん体力が削られてくるのすら「これだよ! マラソン練習ってこれだよ!」と思っていた。「でも、そう思えたのは最初の1カ月ぐらいでした(笑)」

駒澤のユニフォームを着て最後のレース。藤田さんの思いは強かった(写真は98年の全日本大学駅伝、撮影・嶋田達也)

疲労がたまって、徐々に体が思うように動かなくなり、レースが近づくにつれて体が重くなってきた。暑さには強い藤田さんだが、初マラソンの日はみぞれ。極寒の中でスタートした。そんな悪コンディションをものともせず、藤田さんは2時間10分7秒の日本勢トップでゴールし、瀬古利彦さんが早稲田大時代に樹立した学生記録を20年ぶりに更新した。

「もう、意地だけですね。箱根駅伝で優勝して、大八木さんを胴上げして卒業するというのが私たちの学年の総意でした。それがかなわなかったので、最後、私のマラソンしかない、と自分に言い聞かせてました。だから気持ちが切れませんでした」

冷たいみぞれは容赦なく体温を奪う。いまでいう低体温症に近い状態になっていたと振り返る。ラスト1kmのところに大八木コーチがいて「学生記録破れるぞ!」と声をかけられた。そこでスイッチが入り、わずか5秒だが、記録を更新できた。「いま思い出してもよく切れたなと思います。気持ちだけで走りました」。そのとき、初めて大八木コーチが「よくやった」とほめてくれた。「全然ほめないんですよ。結局現役時代でほめられたのは、この時と日本記録を出したときだけです(笑)」

引退レースを終えて初めて、自分の頑張りを自分で認められた 藤田敦史4完

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